ファッション・空間、総合的なコーディネートを通じて、自分に合ったライフスタイルを見つけるお手伝いがしたい!
渡久地真子さんとは共通の知り合いは多いものの、お会いするのはインタビュー時が初めてでした。
勝手にクールでサバサバしているイメージを持っていましたが、お話してみるとスゴく話しやすくて感覚が似ているなと感じる部分も色々と有りました。
女性ファンが多いのにもスゴく納得です♪
取材日:2017.12.07 インタビュワー:黒瀬 圭の詳細はコチラ
今日はよろしくお願いします!渡久地さんは沖縄出身ですよね?
渡久地 そうですね。沖縄です。
小さい頃は浦添だったんですけど、小学校6年生の頃に那覇に移って、そこからはずっと那覇ですね。
4人兄弟の、私が長女で、妹と弟2人がいるんですけど、一番下とは一回り離れてますね。
幼少期〜学生時代
幼少期とか、小学生の頃って、どんな子だったって記憶はありますか?
渡久地 え〜、もうね。
本当に普通の子(笑)
前に出たいとかでもなく、普通に暮らしたい感じで。
イザコザとかトラブルが嫌で・・笑
ただ、母がオシャレな人で、お家とかもスゴくこだわってたんですよね。
で、常に「良いものを見なさい」「良いものを着なさい」って言われ続けていて、「それって何なのかな?」って思いつつ育ったんですけど・・。
今でも母はオシャレで、私のファッションにアドバイスしてくる事もありますね(笑)
「ちょっと、これ無いんじゃないの〜」とか(苦笑)
お母さんは今おいくつなんですか?
渡久地 私が40なので、母は62歳とかですね。
あっ、じゃあお母さんが若い頃に産まれたお子さんだったんですね。
渡久地 そうですね。
20歳過ぎぐらいの時の子なので。
父親が青年海外協力隊で、世界を飛び回っていたので、その影響もあって、幼少期の頃からアフリカとかインドとか色々なところに行きましたね〜。
おー!幼少期に世界を見れると、すごく視野が拡がりそうですよね。
渡久地 拡がりますね〜。
小さい頃にアフリカに行った時に、単純に「あっ、世界はこんなに広いんだ〜」って感じで、こんな小さい事で悩んでる場合じゃないなっていうような捉え方は、その頃から感覚として掴んでた気がしますね。
黒瀬 アフリカのどこですか??
渡久地 タンザニアとかケニアですね。
黒瀬 なるほど。何か、本当に思うんですよね。
学校のイジメの問題とかでも、世界観が狭すぎるというか・・。
周りとか大人が「あなたの世界、居場所はここだけじゃないよ。」って事を伝えようとしても、本人にとっては「教室の狭い空間が、自分の世界の全てのような感覚」でしかなかったりするし。
小学校ぐらいの時に、全体でアフリカとかアジアに連れて行って「見せる」って事をするだけで、人生に役立つ世界観の開け方がするんじゃないかなって思うんですよね。
渡久地 本当に、そういうのが大事だと思います。
「見せる」っていう事が。
そういう意味では私はラッキーな環境でしたね。
その頃、これが好きだったな〜って事はありますか??
渡久地 えっと、一般的な習い事は一通りやったんですけど、どれもピンとこず、ある程度習得したら「辞めさせて下さい」と母に直訴する感じで(笑)
で、好きだったというか、毎日のようにやってたのは、母のクローゼットを開けて色々な服を着ていました。
お洋服が大好きで、「早く大人になりたい」、「早く身長伸びないかな〜?」ってずっと思ってましたね。
おー!その頃からもうファッションに興味が強かったんですね
渡久地 小学校の頃は、「山形屋」っていうデパートがあって、よくそこに母と行ってたんですよ。
そこには、子ども服のブランドもいっぱい入ってて、私は「可愛い洋服をいっぱい着たい♪」って思ってたんですけど、母は「良いものを長く着なさい」っていう教えだったんですよ。
だから、「何か、私毎日同じような服着てない??」っていう感じで、子供心としてはスゴく嫌だったんですよね。
でも、持ちが良くて、生地とかの素材も、仕立ても良かったので、後から当時の写真を見ると「あっ、私、良い服着てるわ!」って思って、今となっては感謝してますね。
やっぱり「良いものは長く持つから、お金をかけてでも、それなりの物を着る事に意味がある」という母の教えの影響はかなりありますね。
スゴイですね。そういう言葉ってお母さんが20代ぐらいの時からの台詞ですよね。お母さんはファッションや美容の仕事をしていたとかですか?
渡久地 母も父もNTTにいて、母はファッションとか美容とかそういう関係にいたとかでは無いですね。
単純に母が感覚的にオシャレで、ファッションが好きだったんだと思います。
悪く言えば浪費家?笑
で、それって多分、おばあちゃんから受け継がれるもので・・。
母方のおばあちゃんは今98歳なんですけど、未だに毎日お化粧するんですよ。
お〜!脈々と受け継がれてる感じなんですね!
渡久地 「おばあちゃん、なんで化粧落とすの大変なのに、毎日するの??」って聞いたら、「真子ちゃん、女はいつまでも女なのよ」って言われました。
いつも、化粧品が無くなったら「真子ちゃん、どこどこの化粧品買ってきて」とメーカーも指定してきます(笑)
お店の人も全部覚えてくれてるので、行ったら自然といつものやつが出てきますね。
素敵ですね♪
渡久地 確かに、おばあちゃんはオシャレで、服も全部オーダーメイドで自分にあったものを着てますね。
スゴくお金持ちって訳ではなくて、お金をかけるところが、「ファッション・美容」っていう事なんだと思います。
おばあちゃんも、仕事がファッション系だったとかでは無いと思うんですけどね。
母方の血は根がオシャレという事ですね!笑 中学は沖縄の公立ですか?
渡久地 そうですね。
あっ、そうそう!中学に上がる前の事なんですけど・・。
父が2年間青年海外協力隊でアフリカに行っていたので、私が小学校6年生の時に、外国に行ったことのない母が、私と小学校3年生の妹、5歳の弟を引き連れみんなでアフリカに押しかけました。
そこで面白い体験を沢山しましたよー。
そして沖縄に戻ってきたタイミングで首里の方にお家を買って那覇に住み始めたので、松島中に通ってましたね。
中学の頃は部活とか、何に打ち込んでたんですか?
渡久地 部活は吹奏楽で、パーカッションをやってました。
幼少期からピアノをやってたので、その延長で入ったんですけど、何故か打楽器の方にいかされて(笑)
でも、そこで「協調性」を学びましたね。
自由な性格だったので。「あっ、こうやって揃えないといけないんだな・・」って(笑)
でも、幼少期から海外を見たり、アフリカに行ったりすると、感覚的に浮いてしまうような感じはなかったですか?
渡久地 あっ、でもね。
変わった子だったかも!
当時を今から思うと、マセてるとかではなくて、感覚的に違ってたんじゃないかな?って思う。
達観してる、悟ってるような感じですか?笑
渡久地 悟ってるとかじゃないけど、「なんで、この子達こんなに女子同士集まって群れてるんだろう??」みたいな。
女性の群れみたいな感じが苦手だったので。
部活で協調性を学びつつも、人付き合いはマイペースな感じで・・・。
もちろん、仲の良い友だちとかメンバーはいましたけど、基本的にはグループとか関係なく、誰とでもお話するという感じでしたね。
なるほど。高校も沖縄の高校に進学されたんですか?
渡久地 そうですね。
私立の興南高校の特進科に進学しました。
興南高校は色んな学科に分かれてるんですけど、部活がなくて、バイトもしちゃダメだったんですよ。
で、私立なので沖縄の色んなところから人が来ていて、一人暮らしとか、寮に入っている人が多かったので、そういう子の所にたまって色々なお話をしたり、学校帰りは家と逆方向の浮島通りのセレクトショップ巡りが日課でした。
将来の仕事に繋がるキッカケ〜東京時代
特進って事は真子さんも勉強に力を入れて、大学目指してたんですか?
渡久地 そうでもないです(笑)
特進科なので周りはほとんど大学を目指してたと思うんですけど、私は全然そのつもりが無くて。
その時から「お洋服関係の仕事がしたい」と思ってて、「お洋服だと、アパレルしか無いのかな〜??」って色々調べてたんですよね。
でも、単純にお洋服を売る仕事がしたいって訳でもないしな〜って思いながら、親に「1年間だけ留学させて下さい!!」ってお願いをして、高校卒業してから1年間アメリカに留学したんですよ。
そうなんですね。アメリカのどこに行ったんですか?
渡久地 シアトルですね。アメリカのワシントン州の。
で、行ってから気づいたんですけど・・。
とにかくアメリカに行きたかったので、親には「1年間、語学留学をさせて下さい!」って言い方をしたものの、実際に行くと「あれっ、私、特に外人さんが好きな訳でも無いし、英語を勉強したいわけではないな」って・・・笑
じゃあ、何が好きで何を求めてアメリカに来たんだろうって考えた時に。
やっぱり、見るものとか、風景とかモノ、インテリアとかそういった所に自分の興味がいってる事に気づいて・・。
ある時、ロスに行った時に、ローズマーケットっていうフリーマーケットをして、そこにバイヤーさんみたいな人が沢山いて。
モノを買い付けて、売るっていう仕組みを知って、「あっ、私、日本に帰ったらこれをやろう!!」って。
アメリカからは、そのネタだけを持って帰ってきた感じでしたね(笑)
なるほど。帰ってきてからはどういう動き方をしたんですか?
渡久地 沖縄で就職するっていうイメージが無かったので、東京に行って、東京の某大手アパレルメーカーに就職したんですよ。
当時アパレルメーカーは盛り上がってたし、一応は海外に行ってた経験があるのも経歴としては強みだったので、就職はスムーズでしたね。
その会社で、実際に中国とか海外にも行って、バイヤーの仕事も経験することが出来ました。
在籍は5年ぐらいだったんですけど、そこで、アパレル業としての全体の事を学びましたね。
バイイング、ショップ、販売、プレスリリース、他のメーカーとの取引とか一通りの事をやらせて頂いて。
おー!語学留学の経験が活きて、やりたい仕事が出来たんですね♪
渡久地 そうですね。
ただ、当時のアパレル業界ってスゴくバブリーだったし、本当に仕事が大変で。
周りのスタッフはドンドン潰れるように辞めていったり・・・(苦笑)
私は性格的にも淡々と仕事をこなせる方だったんですけど、それでもやっぱり疲れてきて、苦しかったですね。
それで、26歳の時に退職して沖縄に帰ってきたんですよ。
沖縄で充電期間〜アパレルショップ運営
そうだったんですね。じゃあ「東京の経験を活かして沖縄でこういう事やるぞ〜!」ってモチベーションというより・・
渡久地 そうですね。
疲れて帰ってきましたね(笑)
良い部分も悪い部分も、色々な事を見過ぎたし、やり切ったというか、燃え尽きたというか(笑)
その時に彼もいたので、次は結婚して子どもでも産むか〜っていう感じで・・。
沖縄に帰ってきて半年ぐらいで結婚して、子供もすぐできたんですよね。
4人子どもがいるんですけど、上が2人が年子で、中3、中2、小6、小2ですね〜。
じゃあ、沖縄に戻ってしばらくは結婚生活、育児に集中するって感じだったんですね。
渡久地 そうですね〜。
ずっと厳しい環境にいたので、沖縄に帰ってきて真逆というか・・。
「ママ友って何??楽しい〜〜♪」みたいな感じで、新鮮で。
料理するのも、パン作るのも好きだし、「毎日自由〜♪主婦は主婦で楽しいな。」って思って楽しく暮らしてました。
育児は戦争とか言いますけど、東京時代に比べたらって事ですね。
渡久地 そうなんですよ〜。
本当にハードだったので。
朝の6時に出社してメイクをバッチリ決めて、そこから夜中までぶっ通しで働くような・・・汗
お家はただ寝る場所って感じで、アパレルなので土日も仕事だし、忙しすぎて友達との付き合いも悪くなっちゃうし・・(涙)
キツイですね。それと比べたら沖縄での専業主婦としての生活は天国ですね。
渡久地 そうですね。
でも、実は専業主婦って期間はほとんど無いんですよ。
妊婦生活はゆっくり楽しんだんですけど、1年もゆっくりしたら飽きるじゃないですか?(笑)
で、元々、旦那さんにはお店をやりたいって言っていて。
でも、結婚という流れもあったので、どうしようかな??っていう感じで時間が過ぎていったんですけど・・。
「産んだら動けなくなる!!」と思って、出産前に牧志(沖映通り)にショップを作ったんですよ。
ショップっていうと、どういう感じの?
渡久地 ブランド古着ですね。いわゆるインポート的な。
東京のアパレルメーカーとの繋がりもあったので、地方とか沖縄には売っていない、海外の衣類とか商品を買い付けて、販売する感じの。
で、最初の沖映通りの店舗がうまく回ったので、浮島通りと安里にも店舗を出して、1年ぐらいかけて合計3店舗に増やして運営していました。
3店舗ってスゴイですね♪お店をやり始めたのって12〜13年前ですよね?その時期の国際通りって観光客だけじゃなくて、うちなーんちゅ(沖縄県民)も多かったんですか?
渡久地 ですね。まだまだ多かったです。
地元のお客様が80%ぐらい。
なので、すごく良い時期にやってるんですよ、お店は。
安里は家賃がスゴく安かったので、沖映や浮島で残ったものを安く出して全部さばくようなショップで、おばちゃん達が買い占めに来るみたいな(笑)
なるほど〜。確かに今の国際通りとは全然環境が違いますね。
渡久地 当時は、沖縄だとまだまだネットの活用が弱かったので、ホームページとかに情報を出すと、修学旅行生や観光客がネットで調べてお店に来てくれたり。
で、浮島通りってみんな朝が遅いじゃないですか?
私は子ども達を学校に行かせたら、朝9時ぐらいから暇なので、早くからお店に行ったら「あれ、なんか修学旅行生がいっぱいいる!!」と思って。
早くからお店を開けるようにしたら、もう独り勝ちですよ。
他のお店が空いてないので、みんなうちに来てくれて。
1日100万超えもあり、買い付けが間に合わないぐらい。
なので、お昼ぐらいには商品も減ってくるし、一旦お仕事終了になるんですよ(笑)
午前中が勝負と言うか、かき入れ時だったんですね(笑)
渡久地 ですね(笑)
後は、宮古島とか離島でもインポート系のファッションがブームでオシャレな娘が多かったので、うちのショップで買い占めていってくれたりもしましたね。
販売のスタッフも入れつつ、基本的には1人で買い付けもショップ運営も全部しながら、一番下の子がお腹にいる時期までは続けてましたね。
じゃあ、6〜7年前までぐらいまではお店をやってたんですね。
渡久地 そうですね。
買い付けでアメリカや韓国に行く時は、2週間ぐらい行っちゃうんですけど、いつも子供を義理の母に預けてたんですよね。
でも、4番目の子供が出来た時に、さすがにまた赤ちゃんも含めて子供4人預けて沖縄を離れるのは、お願いしにくいなって思って・・。
義理の母は協力的だったので「良いよ〜」とは行ってくれてたんですけど、一番上の子が小学校に入るタイミングでもあったので、一区切りというか、やり切った感もあったので、お店を閉める判断しましたね。
後は、お店を閉める頃には、もう「これからはモノを売る時代じゃない」って感じてたんですよね。
そっか〜。お店もまだまだ勢いがある中で閉めちゃったんですね。お店を譲渡するとか、引き継ぐとかもしなかったんですか?
渡久地 そうですね。
自分のお店の名前でまた違う印象をつけるのは嫌だったので、潔く閉めようと思って、残った商品も周りのお店に譲ったりあげたりして。
バイイングはセンスが大きく影響するので、誰かにお店を譲るとか引き継ぐって考えはなかったですね。
モノを売る時代が終わると感じた理由
その時期に「モノを売る時代が終わる」っていう風に思ったのは、どういう理由があったんですか?
渡久地 一番最初にお店を始めた頃は、やっとネットが普及し始めたって感じだったんですけど、お店を閉める頃には、もう個人の人でもネットで日本から海外の商品を直接買ってしまうような時代になっていたんですよね。
東京のアパレルメーカー時代も、散々ブランディングとか、商品にいかに付加価値をつけるか?、「価値」っていう事をずっと考えてきたので、ネットでどこにいても好きなものを買える状況になってくると、日本に売っていないものを単純に仕入れてきて売るっていう「バイイング」の部分には大した価値を見いだせなくなるなって思ったんです。
私が海外に行って仕入れたところで、そこまでの価値はのせられないし、そこに価値が付けられないんだったら、単純にビジネスとして儲からなくなるし。
なるほど!その時点で、今後は「こういう価値の付け方だ!」っていうイメージは既にあったんですか?
渡久地 えっとですね。
東京時代は売上至上主義というか、販売!販売!っていう感じで、上は「とにかく売りなさい」っていう感じだったんですけど、私はその人に似合わないものを売りたくないっていうポリシーもあったので、こっそり反発しながら、似合わないものは似合わないってハッキリ言いつつ、なるべくお客様に合うものを提案するように心がけてたんですよね。
で、当時はあくまでブランドだったり、製品が全てで、販売スタッフに顧客が出来る、スタッフが顧客を持つようなイメージ自体が無かった時代だったんですけど、「渡久地さん居ますか??」っていう感じでお店に着てくれるお客様も結構いたんですよね。
沖縄でお店をやっている時も「顧客」をスゴく大事にしていて、「こういう商品を買ってくれば売れるだろう」じゃなくて、「この服はあのお客様に似合う」という感じで、一人ひとりの顧客を意識して買い付けしてましたね。
で、「◯◯ちゃんに似合いそうなアイテムを仕入れてきたよ〜」って連絡すると、喜んで買ってくれるみたいな。
そういう1人ひとりに似合うファッションを提案する前提での買い付けという部分には、しっかり価値があるなって感じてました。
一時休息〜新しい目標との出会い
当時から今の仕事に繋がるというか、同じようにファッション提案をおこなっていたって事ですね!お店を閉めてからはすぐに次の展開に動き出したんですか?
渡久地 ここでまた少し休息ですね(笑)
沖縄で店舗をやっていた時は、ドタバタな生活を送ってたので、今でも長女は「あの時寂しかった〜」とか言うんですよ。
家庭とか子供とも向き合えていない時間が長かったので、一旦整理して、ちゃんと家庭を省みようと思ったんです。
一番下の子も産まれたので、1年半ぐらいは育児とか、PTAの副会長をやったり子どもの学校の事に関わってましたね。
で、私の中ではお洋服関係の事はやり切った感覚があったので、何か次の展開という頭はなかったんですよね。
主人がずっと不動産運営のような仕事をしていて、その時期に宅建の試験も受けて、事業を拡大していくという状況だったので、今まで散々やりたい事をやらせてもらったし、「今度は主人の事をサポートしよう!」と思ったんです。
彼が宅建を取るまで順調にいっても1年ぐらいはかかるので、「だったら私は行政書士の事務所で働いて知識を得よう!そしたら彼の仕事もサポート出来るし♪」と思っていたら、ちょうどタイミング良く小学校の同級生が法律事務所を立ち上げたので、そこに働かせてってお願いして。
人生初めての事務仕事でしたね!
ウズウズしなかったですか??笑
渡久地 まぁ、慣れないので大変でした(笑)
服装は自由だったので、好きなファッションで行ってて、先生たちから「今日はどこにお出かけ?笑」って感じで言われてたんですけど、離婚相談とかに来る人もいる中で私がピンクとか、そういうファッションでいるのは違うなって自分でも気づいて。
そこで初めてファッションも、TPOが大事だなって事を学びましたね(笑)
あとは、自分の性格として表に立って突き進むというよりも、サポートとか裏方の仕事の方が合ってるなって自覚もしたんですよ。
だから、先生たちのサポートのような仕事も全然苦では無かったですね。
そこから、今のファッションや空間コーディネートの仕事にどう繋がっていったんですか?
渡久地 そうやって働いて1年半ぐらいした時に、知り合いのママ友から「真ちゃんは、何がやりたいの〜?」って聞かれたんですよね。
「えっ!?出産も子育てもして、その前はやりたい事やってきたし、好きな事もやってきたし、これから何かする事あるのかな??」と・・・
私にとって、この質問がとても衝撃的でした。
せっかく子どもや家庭と向き合う環境が作れているのにこれを崩すのもな・・・って思いつつも、「あれっ、私、これから何をするんだろう??」って考えだしたら止まらなくて(笑)
ただ、ファッションの分野に戻るとしても「モノを売る時代は終わった」っていう考えが頭にあったので、「さて、どうしようかな??」と思っているうちに、気づいたら、インターネットで「ファッション」って検索して、色々調べてたんですよね。
それで「パーソナルコーディネーター」という資格がある事を見つけたんですよ。
思い立ったら止まらないんですね(笑)
渡久地 ですね(笑)
ちょうど3日後に試験があったので、すぐに申し込んで東京まで行ったんですよね。
えっ!?見つけて3日後の試験に申し込んだんですか?試験勉強みたいな事は・・・?笑
渡久地 「だって、ファッションの事なら私分かるし出来るし、大丈夫!」っていう変な自信があって(笑)
筆記試験も銀座の店舗でのファッション提案的な実技もあったんですけど、迷わず申し込んで行きましたね。
で、法律事務所の方には「すみません。私、やりたい事が見つかったので、辞めます。試験を受けに東京に行ってきます」って連絡して(汗)
うわっ、嵐のように辞める感じ(汗)
渡久地 (笑)
もちろん、引き継ぎもあるので、一定の期間は勤務を続けてから辞めましたけどね。
「旦那のサポートをするって話はどうなったんだ!?」って、突っ込まれましたけど、同級生も私の性格の事はよく分かってくれていたので、無理に引き止められることもなく、送り出してくれました(笑)
で、一次試験に受かって、また改めて店舗同行の試験も受けに行って、無事にパーソナルコーディネーターの資格を取ることができました。
コーディネーターの次には、教える立場としてパーソナルコーディネーターの資格を発行するための「インストラクター」の試験もあって、それも受けに行って資格を取得しました。
内地にいかなくても、沖縄でコーディネーターの資格を取れるようにしたかったので。
凄い勢いですね!笑 でも、その時期ってまだパーソナルコーディネーターの認知ってまだまだ低い時期ですよね?
渡久地 そうですね。
それが3年ぐらい前です。
今でこそ、全国的にもパーソナルコーディネーター、パーソナルスタイリストって肩書きの人がかなり増えてますけど、当時は少なかったし、沖縄では全然でした。
周りは私がアパレル業界にいた事を知らない人ばっかりだし、沖縄の店舗の時に顧客との繋がりも無くなっている状態だったので、認知の低いサービスを利用してくれる人を新規で開拓していく必要がありました。
パーソナルコーディネーターからライフスタイルコーディネーターへ
最初はどうやって拡げていったんですか?
渡久地 私が受けたパーソナルコーディネーターの資格って、ファッションの基礎を教えるんじゃなくて、ファッションの知識やセンスを活かしてどうビジネスにするか??っていう事を教える感じだったんですよ。
パーソナルコーディネーターの場合「ショッピング同行」という形で、買い物に同行して、その人に合う服や小物とかを提案してコーディネートするサービスを入り口にする事が多くて。
最初は私自身も「ショッピング同行?買い物に着いていってお金も貰えるの??」という感じだったんですけど、まずは「8,000円でショッピング同行します!」というメニューを作ったんですよね。
で、本当に一番最初は「10名だけ2時間5,000円のモニター価格」で打ち出して、アメブロで募集したんですけど、意外と興味を持ってくれる人が多くて、モニターの定員もしっかり埋まったんですよ。
その結果を、事例・お客様の声としてブログで紹介したら「私も」「私も」って依頼が来るようになって、そんな感じでブログや口コミでドンドン広がっていった感じで、後はその繰り返しですね。
なるほど、潜在的にニーズを持っている人がいて、沖縄で他にやっている人がいない状況だったからこそ、結構スムーズに相談者が集まったんですね♪
渡久地 そうですね。
そうやって信頼関係が生まれていくと、自然と紹介も増えてくるんですよね。
で、今は顧客さんがいるんですよ。
年間契約で「私のクローゼットを全部管理して下さい」って感じで、シーズンごとに一緒に買い物に行って、クローゼットの洋服も全部写真に撮って、服の組み合わせとか着回しとかも全部ご提案して。
私自身は顧客の方とじっくり向き合っている感じですね。
なるほど。最近は、渡久地さんに習ってパーソナルコーディネーターの資格を取りたいっていう人もドンドン増えてきているんですか?
渡久地 そうですね。
少しずつ増えてきていますね。
ただ、沖縄って東京とか、陸続きの内地の市場と比べて、人口も少ないし、圧倒的に規模が小さいじゃないですか?
だから、狭い沖縄の市場にコーディネートが出来る人をいっぱい作ってもしょうがないと思ってて・・・。
インストラクターの資格を取ったから教えて資格は発行できる。
でも、10人、20人と増やせば私自身は儲かるけど、増えすぎると個々の生徒さんが潤わなくなる状況を作ってしまうので、その葛藤がスゴイあるんですよね。
黒瀬 それ、スゴく思います!協会ビジネスとか、ディプロマ発行ビジネスって多いですけど、市場の母数が小さいのに、ドンドン生徒を輩出してしまうと、小さい母数を奪い合って皆が潤わなくなるのに、そこを考えずに無責任に生徒を取り続けるところが多いですよね。
それは無責任というか、そこまで考えない人は、生徒さんをお金儲けの道具にしかしてない感じがしてスゴく嫌です。
渡久地 そう。
だから、沖縄だけを見て一般的なパーソナルコーディネーターとしての活動だけしていると、ビジネスとして成り立たないなっていう事を強く感じて、その時思ったのが「企業と繋がろう!」って事なんですよね。
企業とつながれば、一個人じゃなくてもっと幅が出てくるし、パーソナルコーディネートの市場も拡大していけるんじゃないかなって思ったんです。
企業と繋がるっていうのは、具体的にどういう感じになるんですか?
渡久地 最初のスタートは、経営者の方とか、役員の方とか人前に立つ方、出る方が中心ですね。
「人前に立つからこそ、こういうコーディネートなんですよ」っていう事をTPOに合わせて指導させて頂きながら、実際に経営者の方とショッピング同行してコーディネートさせて頂いたり、女性経営者の方のスタイリングをさせて頂いたら「うちの旦那もして欲しい」ってなって、夫婦まとめてショッピング同行みたいなパターンも出てきたりして。
実際に企業や経営者の方のコーディネートをする機会が増えて、やっぱり企業との繋がりを増やしていくべきだなって思った時に、今ビジネスパートナーとして一緒にお仕事をさせて頂いているアッシュエンタープライズの社長さんとも繋がったんですよ。
アッシュエンタープライズさんは、店舗開発やコンサル、内装工事の全般を行っている企業さんですよね。
渡久地 そうですね。
モデルルームとかスタジオの撮影でモデルさんとかのスタイリングをしていると、ファッションだけじゃなくて、撮影の空間全体のコーディネートも出来ませんか?って相談されたりもするんですよ。
経費の節約にもなるので(笑)
最初は経験も無かったんですけど、自信はあったので「出来ます!!」って答えて、やらせて頂いて。
で、やってみると、「やっぱりファッションだけじゃなくて、映り込む空間全体のトータルなコーディネートも出来るな♪」って手応えを掴んだんですよね。
「じゃあ、どういう風に仕組みづくりをしていこうかな??」って考えた時に、ちょうどタイミングよく繋がったアッシュさんと組んで仕事をすれば良いなと思って。
内装工事も出来るし、職人さんもいるので、後はコーディネーターさえ入れば、空間コーディネートの仕事も出来ますよね♪って事になって、今の形になっていってるんですよね。
いつもちょうど良いタイミングで、必要な繋がりが生まれてますよね♪インテリアとか空間のコーディネートも含めて総合的にやれるって良いですね。
渡久地 確かにそうですよね♪ご縁には恵まれてると思います。
ですね。
インテリアコーディネートという感じよりも、空間全体ですね。
衣食住って生活の基本じゃないですか。
誰とどういう空間で過ごして何を着るか?何を食べるか?ってスゴく重要だと思っていて・・。
好きな人と過ごせるとしても、狭くて汚い殺風景な部屋でラーメンを食べたりすると、心も荒むじゃない??
例えが・・(笑)でも、確かにそうですよね。
渡久地 そう。
だから、どういう空間で過ごすか?っていう質、同じ「お金」「時間」なのに、空間の質とか着るもの、食べるものの質で大きく変わるなって事がわかった時に、そういう提案をしたいなって思って
今は「ライフスタイル・コーディネーター」っていう大きいくくりで活動するようになりました。
こういう風に動き出すと、パーソナル・コーディネーターっていう肩書きがしっくりこなくなってきたんですよね。
ファッションだけに囚われたくないって気持ちが強くなってきて。
空間のコーディネートは、撮影の空間だけじゃなくて、店舗や個人の住宅でも出来ますよね。
渡久地 そうですね。
基本はどこでもやりたいんですけど、直近の目標としては、特に住宅の空間コーディネートの分野を拡げていきたいって思ってますね。
今住んでいるこの空間も、自分が習っているベリーダンスの先生に教室スペースとして提供していたりするんですけど、そういう、人との関わりも含めて自分のライフスタイルに合った空間を作って行くのはとても大事だと感じてますね。
「自分のスタイルに合った」っていう部分に、価値をつけたいと思ってます。
今後の展開・想い
他にも今後の展開、イメージは有りますか?
渡久地 えっと、実は今、色々あって旦那とは別居していて、子供も上3人とは離れて、一番下のチビちゃんとしか一緒にいれない状況なんですよね。
別居して、お金もなくて、住むところどうしよう・・・好きなベリーダンスも踊れないってなって。
でも困ってても、「別居」だけだと市とか行政はサポートしてくれないし、去年の収入がこれだけなので補助はできませんとか、理不尽に感じる事もいっぱいあったりして。
悔しいから「自分でしっかり自立して、何の援助も受けないぞ!」という気持ちになりましたよ!笑
もちろん大好きな仕事はしてるんだけど、好きな仕事って苦しみもあるじゃないですか??
特に私の場合は、決まった作業をこなす感じではなくて、アイデアを基に、何も無いところから作り上げていく「生みの苦しみ」がある仕事だったりするので、心のゆとりとか安定ってスゴく大切で・・。
で、どうにか心を整えないとな・・っていう時に、ベリーダンスが心の支えになったんですよね。
あの無になれる感覚が好きで。
現在進行系ですけど、そういう経験もあるので、これから自立をしたい女性を応援するような事もしたいですし、何より離れている子供達に自分が力強く進む姿とか、想いを持って仕事をしている姿を伝えていきたいって思いますね。
私が下を向いていたら子供たちに示しがつかないし・・・
女性が働く意味、自立する意味、お金を稼ぐ意味とか。
そういうのは直接は伝えられなくても、今はSNSとかもあるから、単純に・・わかると思うんですよ。
彼女たちに直接声はかけられなくても、中学校とか学校から声がかかったら、私は行くんですね。
自分の子には直接語りかけられないけど、同じような世代のこの子達に仕事とかの話をすることで、自分の気持ちを表現できるのかなって・・。
そういう活動もお手伝いしながら、自分の基盤も固めていきたいって思ってますね。
メッセージ
渡久地さんは「誰に」こういう「メッセージを伝えたい」っていうものがあるなら、どういう内容になりますか?
渡久地 私は、「自分の子ども達」ですね。
じゃあ、「なんで仕事してるの??」って聞かれたら、基本はそこにベースがあるから・・。
自分の子ども達があっての私だと思っているので。
で、子ども以外で言ったら・・・
性別や年齢は関係なく、自分のやりたい事が見つからないとか、何か問題を抱えているとか、「生き辛さのようなもの」を感じている人に対してですかね。
同じ時間を過ごすなら、「どうやって過ごすか?」っていう事を考えるだけで、色んな意味で質とか方向が変わるから、どうやったら自分が喜ぶのか?っていう、まずは自分を大事にして・・・そこから愛をわけていけば良いのかなって思いますね。
「自分らしく生きられる、自分のスタイルを見つけて欲しい」
それが現在の私が肩書きにもしている「ライフスタイル・コーディネーター」としてサポートしていきたいテーマでもあるんですよね。
こんな人と繋がりたい・提供できる価値
こういう人と繋がりたいってイメージは有りますか?
渡久地 自分の感覚が共有できる人と繋がりたいかなって思いますね。
仕事の部分だけではなくて。
不思議とそういう人としか繋がっていかないですけどね。
ただ、今後はもう少し色々な人との繋がりも増やして、色々な人を見ていきたいなって気持ちもあります。
渡久地さんが提供できる価値ってどういうものがあると思いますか?
渡久地 う〜ん。
それこそ、自分のライフスタイルですかね。
こんな風に生活して楽しいよって事を伝えるというか。
今の私の状況も知っているママ友に言われた事があるんですけど・・
「同じ女で、私は旦那も子供も居て幸せなはずなのに、同じ女として真子ちゃんに嫉妬する」って言うから、「何で??」って聞いたら「したい事をしてるから」って言われたんですよね。
だから、色んなライフスタイルがあって、その人に合ったスタイルもある、その中で私はこういう風に生活してるよって姿を見せていく事が大事だなって思いますね。
ライフスタイルを提案した結果、その人にこういう風になって欲しいっていう押し付ける感じではなくて、コーディネートをキッカケに自分と向き合って「どう在りたいか?」とか「どういうスタイルが自分に合っているか?」を感じて、見つけて欲しいと思ってます。
渡久地さん、今日はありがとうございました!これからドンドン拡がっていきそうでワクワクしますね♪
そうですね♪
こちらこそありがとうございました!!
インタビューは以上で終了となりました。
渡久地さん本当にありがとうございました!!
Dream voice ryukyu スピンオフ・イベントのお知らせ
2018年1月17日にインタビュワーの黒瀬が主催する異業種交流イベントYumenomi内にて
渡久地真子さんの「公開インタビュー&ミニ講座」を実施します。
真子さんに直接会って、お話が聞けて、自由に質問も出来る貴重な機会なので、ご興味のある方は是非ご参加下さい。
もちろん交流会としての交流タイムも有ります。
◆◇Yumenomi異業種交流会「NEW look with 渡久地 真子」◇◆
日時:2018年1月17日(水) 19時〜22時
場所:コワーキングスペース OCEAN21
浦添市宮城6丁目5番1号2階(ほっともっと上)
参加費:3,000円(性別・年齢問わず)
FOOD:オードブル他、スイーツ、ドリンクフリー(お酒・ソフト)
ドレスコード:レッド(衣服の一部、カバン・アクセでもOK)
イベント参加申請は、以下のFacebookイベントページからか
kurose@dreamteller.biz(黒瀬)までご連絡下さい。
▼イベント詳細・申込みページ
渡久地真子(トグチ シンコ)/ライフスタイル・コーディネーター
SHINKO FASHION+LIFE
URL:http://shinkofashion.sakura.ne.jp/
渡久地真子さんと繋がるには?
ホームページ内のお問い合わせフォーム、もしくはSNSのメッセージからご連絡下さい。
編集後記
インタビュワー:黒瀬 圭 Kei Kurose(株式会社ドリームテラー代表)
渡久地さんの人生のストーリーの中には、休息・充電期間が何回か出てくるんですが、その休息期間が毎回短いですよね(笑)
ご本人も飽き性と言っていましたが、きっと常に新しい刺激や挑戦を求めている方なんだなと感じました♪
そういう感覚は自分と近いものがあると感じたので、今後も仕事でもプライベートで関わっていきそうな予感がしています(*^^*)