ありのままの自分で今やれる事を。沖縄パワーアートを通じて、笑顔の人が増えるポジティブな影響を与えていきたい!
座間味さんとはインタビューの時が初対面。
サイトに直接取材依頼を希望する熱いメッセージを頂きました。
最初の印象から、人懐っこい感じで話しやすく明るくて元気な人だな〜と感じましたが、その笑顔の裏には、山あり谷ありのストーリーがありました。
取材日:2018.01.30 インタビュワー:黒瀬 圭の詳細はコチラ
座間味さん、今日はよろしくお願いします!初めましてですね。
座間味 はい!よろしくお願いします!
黒瀬 Dream voice ryukyuに載せてくれってサイトに連絡を貰ったパターンでの初取材です♪
ありがとうございます。
座間味 はい!
自分から言うっていうね(笑)
沢山の人に活動を知ってもらいたいので(*^^*)
幼少期について
ではでは、改めて。座間味さんは苗字からして、沖縄出身ですよね?
座間味 はい。
沖縄の今帰仁村ですね。北部にあって、今帰仁城跡とかでも有名な。
黒瀬 小さい頃はどんなお子さんだったんですか?
座間味 えっとですね〜。
本当に小さい頃から、かけっことかスポーツとか、体を動かすことが好きで。
祖父も、親父もそうなんですけど、どっちかというとスポーツが得意な家系なんです。
小学校、中学校ではバスケットボール、空手、陸上とかですね、色々やってましたし、山だったり、公民館で走り回ってたりするような感じでしたね。
黒瀬 周りの友達とのコミュニケーション的な部分はどうでしたか?
座間味 まあ田舎なので。
小学校は1クラスしか無かったんですけど、40人ぐらいの同級生の中で、足が一番早かったんですよ。
で、リーダーとか学級長だったり、児童会長とか、そういうタイプのどっちかというと目立つ方ではありました。
黒瀬 1クラスしかないとずっと一緒ですし、かなり仲良くなりますよね♪
座間味 そうですね。
本当に田舎なので、同級生は親同士もみんな知ってるので。
とにかく仲良しですね♪
ただ、中学の時に、別の小学校と2校が一緒になったんですよ。
こっちの小学校は6年間1クラスで、全員がめっちゃ仲良いんですけど、向こうは2クラスあったので、「何その仲の良さ、気持ち悪い」って感じの反応をされて。
どっちかと言うと自分達の方が小さい学校だったのもあるし、そういうマセてる子達と一緒になって、より団結したというか「絶対負けん!!」みたいな感じになりましたね。
僕もまた足が一番早かったから、走りでも負けたくないし、ケンカとかでも絶対負けん!って(笑)
体も大きかったですし、いつも先頭に立つ感じで、
結局、2つの学校を合わせても中学で僕が一番足が早くて、発言力と言うか、そういったのはやっぱりあったので、みんなからもリーダー格というか。
自分で言うのもおかしいですけど、そういう風に見られて。
黒瀬 大袈裟ですけど、マイノリティの意地みたいな感じですよね♪
座間味 そうですね♪笑
中学の時は部活やスポーツはやってましたか?
座間味 小学校1年生から空手道をやってて。
中学は必ず部活動に入らないといけないという仕組みだったので、バスケット部に入りまして。
で、空手道を学校とは別の道場に通ってたので、それをしながら中学1年間は両方。
学校でバスケットして、日によっては空手の方に行ったり。
そのうちにバスケットが好きになって。
ちょうど、その時期に漫画のスラムダンクとか、後はNBAでマイケルジョーダンが大人気♪とか、そういう時期だったので。
黒瀬 めっちゃ分かります!!
座間味さんっておいくつですか?
座間味 38で、今年39になりますね。
黒瀬 そっか〜。自分が36で今年37なので世代的に一緒ですよね♪
座間味 ですね♪
なのでバスケットにハマって、自然と空手は遠のいてしまって。
中学三年間は、ほぼバスケットやってました。
あと、陸上競技もシーズンごとに各部活の生徒から選ばれて、陸上大会に学校代表で出てたんですよ。
陸上部っていうものが無かったので。
黒瀬 なるほど〜。引っ張りだこな感じがして羨ましいです♪
座間味 それで、陸上の大会に出た時に成績が良かったのもあって、那覇西高校から声をかけて頂いて、推薦で那覇西高校にいったんですよ。
今帰仁を離れ、新しい環境で新しい挑戦
高校からはバスケットじゃなくて陸上なんですね。しかも那覇!
座間味 そうなんですよ〜。
今帰仁村から那覇に出てきて、寮が無かったので一人暮らしで。
黒瀬 え〜。だいぶ環境変わりますね。
狭い地域で家族ぐるみで仲良いところから、急に一人暮らしって。
座間味 そうなんですよ〜。
中学はずっとバスケットボール漬けで、僕がキャプテンだったんですよ。
で、地元に北山高校って学校があって、そこで皆でバスケ頑張ってインターハイ出るぞ!!って話もしてたんですよね。
でも、僕だけ高校から地元を離れて、陸上の方に行っちゃったんです。
黒瀬 そっか〜。
元々はキャプテンの立場で、心苦しい部分もありますよね。。
座間味 ですね。
でも、仲間達は「お前が決めたんだったら、良いんじゃないか」って言ってくれて。
「お前が沖縄で1番になった時、俺達も一番になってるから、インターハイの開会式の時に会おうぜ!!」って熱い約束をして。
黒瀬 熱いですね!!
座間味 そうなんですよ〜。
寄せ書きとかもして、送り出してくれて。
期待に応えるためにも「ヨッシャ頑張るぞ!!」って気合い入れて、陸上の世界に乗り込んだんですけど・・。
でも、やっぱり田舎では一番足が早くて目立ってても、那覇西にはみんな足速いのが集まってるので、全然目立たないんですね、僕も。
その現実を見て「どうしよう・・。ホントに頑張らんといけない!!」っていう中で、どうにか3年間やり通して、一番良い記録を最後に出せたんですよ。
最初は100m、200mでって思ってたんですけど、学校の代表になるまでには少し足りなくて、それで本音としてはキツイし怖かったんですけど、400mハードルにも挑戦したりして。
やっぱり「代表になってインターハイの会場で会う」っていう同級生との約束を果たしたいって想いも強かったので、当時は相当もがきましたね。
黒瀬 おー!ハードルとなると短距離といっても新しい挑戦ですもんね。
座間味 そうですね。
キツかったです(笑)
で、最後のインターハイの時に競技場で、遠くから「篤〜!来たよ〜!!!」って声がしたんですよね。
そしたら北山高校に進学した地元の仲間が、ベスト8まで進んでて、本当に会えたんですよ!!
僕、本当に感動してしまって・・。
北山高校って、バスケが盛んではあるけど、インターハイに出るような強豪校では無かったので・・。
だから、本当にみんな頑張ったんだなぁって、泣きそうになりましたね。
黒瀬 めっちゃ良いストーリーじゃないですか!!
でも、もしその約束が無かったら、400mハードルに挑戦する事も無かったかもしれませんもんね。
座間味 ですね〜。
あの約束は大きかったと思います。
高校は陸上漬けの日々で、その後はどういう進路になったんですか?また推薦で大学とか。
座間味 えっと、小さい頃から体育の先生を目指していたというか、「体育の先生になった方がいいんじゃない?」って親にずっと言われてて、なんとなく頭の隅にあったんですけど。
いくつか体育系の大学を受けたんですが、落ちてしまいまして。
周りの同級生は中央大学、早稲田、鹿児島大、福岡大とかに進学したんですけど、40名ぐらいの同級生の中で、2割ぐらいは浪人だったんですよね。
で、僕は浪人組の方で・・。
ずっと「走る」事しかしてこなかったので、真っ白になっちゃったんですよね。
どうしよう、この先・・。
浪人して体育大に行った上での就職ってどうなんだろう?
体育の先生以外に「体育」って何があるんだろう?
考えてみたら「体育」って狭いなあ・・・って、モヤモヤしてしまって。
そこからは、ずっとやりたいことが見つからず、ぷらぷらアルバイトしながら。
予備校に籍はおいてたけど、ロクに勉強もせずダラダラしてしまって。
そんな感じで、あっという間に時間が過ぎて、受験の時期も迫ってきて・・。
黒瀬 おっと、それはマズいですね。
座間味 その頃に、何かふと・・
自分の人生観みたいなものを、「詩」というか「コラム」というか、そういう文章を書いてたんですよね。
モヤモヤしたものをブツける感じなのか。
考えてみたら、中学、高校時代は、国語とか文章書くのは得意で好きだったんですよね。
そしたら、ちょうどその時に、学校の先生から「沖縄国際大学を小論文で受けてみないか?」って言われて、1週間前とかギリギリだったんですけど、小論文の描き方とか、色んな本を読み漁ってチャレンジしたら、受かっちゃったんですよ!
沖縄国際大学の商経学部・商学科・経営コースに入って、陸上とは全く違う、新しい勉強が始まって・・。
確かにスポーツ中心の生活からはだいぶ変わりますよね。
座間味 そうですね。
ただ、家も経済的に余裕がある訳でもなかったので、自分で学費を稼がないといけなくて、夜間の方に入ったんですよ。
昼間は食材を給食センターに届ける運送のバイトをして、夜は学校という感じの生活で。
夢っていうのが無いまま入学して、何をしていいのかも分からないし、また何か見つけたいっていう気持ちも全然なくて。
バイトして、学校行って、寝て、また朝バイトっていう生活の中で、予備校の時の延長のような感じで、学業を疎かにして遊びほうけてしまったんですよね。
それで、実は・・・
21歳の時に女の子と出会って、子供ができちゃったんですよ。
黒瀬 おっと、また環境が大きく変わりますね。
座間味 今まで以上に稼がないといけないし、大学を辞めてどっか就職しようかなと思ったんですけど。
就職活動をしても、給料が良いのは大卒だったり、技術職だったりして、スポーツだけやってきた僕が優遇されるようなものは全く無くて・・・。
やっぱり大学は卒業しておいた方が良いって事で、バイトを増やして生活費を稼ぎつつ、学業も必死で頑張って、何とか4年間で無事に卒業したんですよね。
で、卒業してから、営業の仕事、やっぱり給料を見て高いところを選んで入ったんです。
中央出版という結構有名な所ではあったんですけど。
そこからはずっと営業職が長いんですけど、それが始まりですね。
始まりということは、結構色々な会社でお仕事されたんですか?
座間味 中央出版はすごく良い会社で、営業の基礎や精神、社会人として、人として大切な事を沢山学ばせてもらったんです。
ただ、結婚したばかりで小さい子どもがいる状況だったので、寮に入るのを断ったり、転勤を断ったりしてたら、何となく居づらくなっちゃって(汗)
その後は広告代理店、お墓の販売員、掃除用具の営業等を経験して・・。
24歳の時に、運送会社に入ったんですよ。
セールスドライバーの仕事で。
そこは会社の仕組みがキチッとしてて、でもメンバーは全員うちなーんちゅで、良い意味のゆるさもあって。
めっちゃ体育会系の感じだったし。
あっ、ちょうど良い!!と思って。
運送会社のセールスドライバーっていうと、宅急便とかそういう事ですか?
座間味 そうですね。
もちろんトラックを運転して宅急便の配達とか集荷もするんですけど、物販もやっていたので、契約先の商品をお中元やお歳暮商品として営業したり。
あとは、取扱店や発送の窓口を増やして、その周りの店舗さんにも受付方法等を教えたり、サポートしたりと結構幅が広かったですね。
なので、荷物の配達は会社としては当たり前の事。
でも、今後、荷物をどう増やすのか?を考えるのは営業しか無い。
で、その会社での営業が自分としては、今まで色々な会社で営業をしてきた中で、スゴイやりやすかったんですよ。
認知度が高かったし、制服も着てるので、お客さんも自然と受け容れてくれる感じで。
正直、「えっ、こんな簡単で良いの!?」って戸惑うぐらいだったんですよ。
黒瀬 なるほど〜。
認知度、ブランド力がある会社だと良いですね。
スーツでどこの誰かわからない人が急に訪ねてくるのとは訳が違いますもんね。
座間味 そうなんですよ。
それで、先輩ドライバー達が「あっちは営業かけても無理だよ」って言ってるところでも、何で?こんなに簡単で、営業で成績上げたら給料も上がるのにって思って、「じゃあ、僕行きますよ!」「やってみせますよ」って言って。
そんな感じドンドン売ったんですよ。
やっぱり負けん気もあったので、荷物の配達と集荷の量、営業の量、取扱店の量で、沖縄で一番になったんです。
黒瀬 おー!スゴイ!!
座間味 もちろん都心部と田舎の方ではだいぶ差があるんですけど。
やっぱり山の上とか、北海道、東北の豪雪地帯とか配達しにくいところも沢山あるので・・。
ただ、やっぱり上層部は「一番荷物を捌いている人は誰か?」っていうのを見てるんですよね。
特に発表される訳ではなく、内々での話なんですけど。
当然、取扱量の多い東京、名古屋、大阪あたりがいつも成績が良くて。
その中で初めて沖縄のドライバーが日本一になる事があって、それが僕だったんですよ。
北海道から沖縄まで全エリアの中で日本一になって。
おー!!スゴイですね♪これはスピード出世コースじゃないですか?
座間味 えっと、2年後にセンター長にならせて頂いて。
みんな年齢も職歴も先輩方なんですよ。
で、一番若いのが仕切らなきゃいけない状況だったんですけど、そうなりたいって想いもあって。
やっぱり、やる前から無理だよ〜って諦める感じを無くしたかったし。
従業員が続かないとか、ドライバーが辞めていくとかって問題もあったので、「どういう風に従業員を喜ばすか?」「どうすれば従業員の家族さんに喜んでもらえるか?」とか色々考えてですね。
コミュニケーションに重点を置いて、人が辞めないように環境を整えて、定着率を上げていくって取り組みを続けたら、やっぱり会社にも認めてもらえて。
やっぱり実力、実績主義という事もあって、トラックを新車に入れ替えたいとか、人を配置して欲しいとかって話を上にすると「成績を上げなさい」って答えが帰ってくるんですよね。
で、僕はずっと営業成績が一番だったので、僕が「スタッフの負担が大きいので人を増やして下さい」、「環境を良くするためにこうしたい」とかって言うと、しっかり聞いてもらえて実現するっていう流れを作り上げた時に、やっぱりスタッフ達も喜ぶんですね。
黒瀬 先人をきって行動して、環境まで良くしてくれるリーダーは最高ですね♪♪
座間味 ありがとうございます(笑)
そんな感じで、8年目ですかね。
「支店長やらないか?」って話を頂いて。
でも、支店長っていうのはもうほぼ動くことはないんですよ。
中に入ってスーツ着て、大手企業さんと話ししたり、クレームの処理とか。
本当に事務作業と言いますか、管理の部分。
そういう風にお声がけ頂いたので、まず副支店長になったんですね。
で、それまではずっと体育会系で、社会人なっても営業で誰よりも一生懸命 外を動き回るっていう仕事の仕方から、ずっと中での事務作業に変わって。
原因不明の病気。歯車が大きく狂い出す
そっか〜。また新しい業務分野でのチャレンジになりますね。
座間味 はい。
ただ、そこからですね、一気に体調を崩しまして・・。
クレーム、ほとんどクレームの対応。
それがずっと続いて、何だかまいってしまって・・。
帰りもセールスドライバーの時より遅くなって、睡眠時間も短くなりましたし。
そんな生活の中で、倒れてしまったんですよ。
血圧が250ぐらい上がってしまって。
黒瀬 250はヤバイですね!!(汗)
倒れて、気づいたら病院で、先生から「あんた!いつどうなっても知らないぐらいになってるよ!」って言われて。
ちょっと休んで、すぐ二日ぐらいして、また現場に戻るんですけど、やっぱり頭痛と吐き気だったり、血便、血尿とか。
後はもう、身体がいうこと聞かないという感じで。
ちょっとおかしいなっていう事で、病院にも色々行きながら、仕事を続けてたら、また倒れてしまったんですね。
薬は貰うんですけど、朝から動けないんですよ。
黒瀬 それって明確な診断はなく、原因不明なんですか?
座間味 そう、原因不明で・・。
原因不明の中、循環器科、内科外科とか色々行ってたんですけど、ヘルニアにもなってしまって。
首も頚椎ヘルニアなって起きれないとか、足の膝の半月板断裂で歩けなくなったり。
この33歳ぐらいの時に、一気に仕事も出来ない、身体も動かせない、頭も痛いって状況になって、入院までして。
それで、責任のある立場で仕事しないといけないのに動けない自分の不甲斐なさとか、思うように身体が動かず夜も眠れない中で、自分のイライラとか、ストレスがピークに達してしまって、家族ともうまくいかなくなったんですね。
その前から、夜も遅いし、すれ違いも多くて、自分も仕事中心で家庭を顧みれてなかったんですけど。
僕も僕で、仕事やってるんだから、疲れてるんだからとか、嫁さんの子育てとか主婦の大変さを理解してあげられなくて・・。
この時期に大喧嘩したんですよ。
僕も自暴自棄になっていたのか、冷静に考えることもできず
「もう良いよ。。全部終わらせてやる」
って感じで判を押してしまって、離婚という事になって・・。
黒瀬 そうですか〜。お子さんと離れちゃうのもキツイですね・・。
座間味 その頃には、男の子と女の子、両方いて。
で、甘く考えてたんですよ。。
「離婚しても子供とは会えるよね?」とか。
でも、奥さんの方も、1人で父親役もしながら経済的にも自立して子供を育てていかないといけないから、ケジメをつけないといけないし。
僕が甘い考えで想定してたのと全然違って、子供とも会えなくなっちゃったんですね。
仕事には3回目復帰したんですけど、その3回目の時・・・。
10年目かな。
もう、この会社ではやれることはやったし、これ以上迷惑もかけられないしっていう事で退社を決意しました。
何だか切ないですけど、とにかくお疲れ様でした!という事しか言えないですね
座間味 病院生活とか通う中で、ずっと時間があるじゃないですか?
身体を動かさないんですけど、頭は動くので、ずっと考えてるんですよ。
「これから先どうしたらいいんだろうな?」って考える中で、何となくですが、絵を描き始めたんですよ。
今まで、美術とかそういうのは全然なかったんですけど。
ただ自分の中の寂しさとか、辛さとか、しっかり輝きたいなって想いとか、楽しい事を想像して描いたり。
友達からの「頑張れ!」って励ましの声が嬉しくて描いたりしてたら、気持ちがスッキリする感じがして。
最初は落書きみたいに趣味で描いてたら、ドンドン描くのが楽しくて、好きになってしまって。
そのうち友達に見せていくと「凄いな!」って事になって、そこからプレゼントするようになったんですよね。
体調不良とか、離婚して一人になってしまった僕を見かねて応援に来てくれたり、遊びに来てくれたりして支えられた部分もあったので、そういう仲間たちに絵を描いてプレゼントしてて。
そしたら、ある時友人の奥さんから依頼されて絵を描いてプレゼントした時に、奥さんが「これは受け取れない」って言ったらしくて、友人が封筒を持って僕のところに来たんですよね。
お金が入ってたんですけど。
で、僕は「そんなつもりで描いたんじゃないし、お金なんて良いよ!!」って言ったんですけど、友達は「いや、これはお前が描いた絵の価値なんだから。お前の絵はスゴくなるよ!!」って言われて。
その時に、自分が好きでやってる事がお金にもなるぐらい評価してもらえて、沢山の人に喜んでもらえるこの感覚ってスゴいな、楽しいな!!って思ったんですよ。
恩人、譜久里武さんとの出会い
おー!ここから本格的に絵を描き始めたんですね。
座間味 はい。
当時、「あの那覇西で400 M ハードルやってた座間味が今絵描きになってるってよ」って感じで噂が広まってたらしくて、その時にある一人の人と、ご縁があって。
「譜久里 武」さんっていって、年齢は一回りぐらい違うんですけど、僕が高校時代で陸上してた時には、もう一般社会人の部で沖縄記録を持ってたスゴイ人で。
黒瀬 知ってます。世界マスターズ陸上でも活躍してるレジェンドじゃないですか。
座間味 そうです!
沖縄陸上界のレジェンドです。
譜久里さんが、その時期にアスリート工房っていう「陸上クラブ」を立ち上げる準備をしてて。
「子供たちに夢を与えたり、文武両道で身も心も育ててあげられるような環境のクラブを作りたい。」
「もし良かったらゆっくりでいいから、少しずつ外に出て、グラウンドに出て、子ども達のコーチをしてくれないか?」
って言ってくださって。
僕は、元々、体育の先生になりたかったし、子どもたちを教えたかった。
これなら絵も出来る!
僕でも、子供たちに教えきれる。
もう、何か・・・
手を差し伸べられたような感じがして
「僕で良ければ、喜んでやります!!」って。
譜久里さんとのご縁で、その頃からちょっとずつ外に出れるようになっていったんですよね。
外に、グラウンドに出た時に、やっぱり子供の頃の楽しい思い出も蘇ってきて、グラウンドが癒しの場になったんですよね。
芝生に寝転んで、空見て気持ちいいっていう感覚。
黒瀬 おー!やっぱり精神的な部分も大きかったんですかね。
座間味 そうかもしれないですね。
本当にその譜久里武さんに会って、話を聞いたり、その姿勢を見たり。
世界一に向けて頑張る考え方とか成功する秘訣みたいなものに触れて、自分も本読み始めたり、色んな人の話を聞くようになったんですよ。
それまでは僕も自分を追い込んでたんですよね。
「俺が子ども達や嫁さんの事を理解できなかった・・」
「ダメなやつだ・・」
「俺は、何て事をしてしまったんだ・・」
って、ずっと自分を追い詰めてたんですけど。
やっぱりもう終わったことは終わった事だし、追い詰めてたんじゃ何も始まらないっていう風に、そこから考えを少しずつ変えていって。
今まで小さい頃から自分は人の前に立って引っ張っていってたけど、本当は自分も周りに支えられてたって事に気づけなかったし、感謝ができてなかった。
嫁さんに対しても自分の事ばっかりで相手の事をちゃんと考えて理解しようとしたり、感謝ができてなかった。
自分も大変で辛い時期を経験して、人の話を聞いたりする中で
「本当に俺は周りから支えられて生きているんだ」
っていう事を強く感じて、感謝がやっとできるようになった感じ。
僕は今、絵が好きでやってるので。
頑張ってる人とか、支えてもらった人に、この絵を通して元気になってもらって、ちょっとでも恩返しができたら良いなっていう思いで描いてますね。
黒瀬 なるほど〜。座間味さんの絵には感謝の気持ちも詰まってるんですね♪
本当に身体が動くようになっていって良かったです。
最初は落書きって言ってましたけど、絵を描き始めた当初はどんなものを描いてたんですか?
座間味 始めは、遊びの感覚があって、それこそチラシの裏ぐらいに自由に描いてたんですよ。
で、ハイビスカスを描いてた時に「まてよ、ハイビスカスを実際に摘んできて、すり潰してその色を使ったら、命が吹き込まれる感じになるかもな??」って思って試したり。
コンテストに出す訳ではないし、お金も貰わないし、今までの自分の事も全部取っ払って、ただ自分がやりたいだけのためにやるって時に「とにかく自由に遊ぼう」と思って。
自由にやったら、スゴイ面白かったんですよ。
絵の具、マジック、クレヨン、色鉛筆とか全部並べて、「この部分は絵の具が良いな♪」「ここは色鉛筆にしよう♪」とか本当に自由に。
水彩画のアーティスト、油絵の絵描きさんとか、そういった方からしたら邪道だし、認められないかもしれないけど、逆に言ったらそういう人っていないんじゃない??って。
「もしかしたら俺だけかも??」って、調子に乗って色んなものを試してみたんですよ。
例えばこういう丸いフタみたいなのを使って、ポンポンポンポン色をつけていったり、実際に使わないだろうっていうものを使ったり。
勉強もしてないし、技術もないし、美術の学校に行ってるわけでもないので、とりあえず何でもやって経験してみようと思って。
黒瀬 そういう時期って楽しいですよね♪
座間味 ですよね♪
それで、自分の中で少しずつ、定まってきたのが・・。
「子供たちを教える時の気持ちと、絵を描く自分の気持ちが一致した」って言うか。
僕は今まで人に頼られると、「俺ならできる!」とか自分で背伸びして、人の上に立とうとする感じ。
「俺についてこい!」みたいな事をして、背伸びして生きてきた感じがあって。
でも、限界が来て・・。
だから背伸びしたり、前に立つことだけが全てじゃないって分かったし。
子ども達に教えてても、当然、足の速い子、遅い子はいる。
性格も違って、人の話をなかなか聞けなかったりとか色々あるんですよね。
「あいつには勝てない」とか「俺、遅いからいいよ」とかって言うんですよ。
でも
「そうじゃないんだよ。」
「足が速いから良いんじゃない。一番だから良いんじゃないよ」
一緒にメンバーとして歩んでいくなら、例えば「転んだりしたら助けて、手を差し伸べる気持ちを持ちなさい」とか、「備品を運んできてくれたら、ありがとうって言いなさい」とか、
朝は挨拶、「おはようございます!」とか礼儀礼節をしっかりしなさいとか、そういう部分に視点がいくようになって。
子供たちには、そういう風に
「今できる事をやりなさい」
「速いだけが全てじゃない」
「自分の素直、ありのままでいいから、好きなことをやって、今速くなくても、背伸びせずに自分が今できる事をやりなさい」
「それを続けていけば、絶対あとは勝つから!」
って、事を言っています。
黒瀬 諦めずに地道に粘り強くって、なかなか難しいですけど、スゴく大切な事ですよね。
座間味 で、僕は絵の勉強をしたことないし、綺麗で完璧なラインを引くことも、イラスト描く事もできないんですよ。
なので自分の今のまま、ありのままの自分ができることは何か??って考えた時に・・
綺麗なものをかけなくても、筆を「ポン」って落とすことは出来たんですね。
なので、てん、てん、てん、てん、とやっていくと・・・
続けていけば綺麗なグラデーションになったんです。
「これだ!!」と思って
今自分のできること続けていこうっていう、「子供たちへの教えと自分の絵の描き方」をリンクさせて
「今できることをコツコツやろうなぁ。」
「後々 必ずいいこと待ってるから。」
そういう風に、子供たちに指導しながら自分の絵を描くようになっていたんです。
黒瀬 何かでもちょっとロマンチックというか、良いですね。
点をつなぐと線になるっていうけど、さらに点を打ち続けると絵になるっていう♪
今でもその画法は続けてるんですよね?
座間味 はい。
今でも結構、点、点でやってる事はありますね。
絵を描き初めてどれぐらいですか?
座間味 5年ぐらいですね。
絵を描き始めて2年後ぐらいに、身体も私生活に支障がない程度には動くようになって。
で、実はその頃に再婚してるんですよ。
僕が1人になって動けなくて、病院にも行けない、どうしよう・・・って時に、気にかけて献身的にサポートしてくれた女性がいて。
離婚して3年後に再婚しました。
譜久里さんとのご縁や、今の奥さんのサポートもあって、徐々に体調も精神面も回復した感じで。
あとは、譜久里さんが当時代表をしていた会社にお世話になったり、本当に周りに色々と支えてもらって、感謝しかないですね。
なるほど〜。絵の方は収入というか、ある程度順調に軌道に乗っていったんですか?
座間味 いえ、やっぱり簡単ではないですよね。
譜久里さんの会社を抜けた後、また運送会社見つけて、運送業をまた始めたんです。
昼間は配送の仕事をして、空いた時間があれば絵の営業をしたり、絵は夜に描いてっていう生活が始まりました。
土日に人が集まるイベントがあったら参加して出店したり、ポストカードを作って販売したりとか。
徐々に噂も広がってくれて、まだまだですけど、少しずつファンと言いますか、声かけてくれる方も増えてきて。
その中で
「ギャラリー持ってないんですか?」
「あなたは絵一本で勝負したほうが良い」
とかって声もあったりしたんですけど
「仕事があって」・・・って
ちょっと言い訳っぽくなってる自分もいて、要は腹をくくりきれてなかったって事なんですけど。
これじゃ、いつまでたっても多分ずっとこのままだよなって事で・・。
去年2017年に、腹をくくって、本気でこの道で経済的にも成り立たせる!って言って辞めたんですよ、昼間の仕事を。
なので、本当に絵描きとして動き始めたのが1年前からですね。
なるほど〜。良いですね!もう個展なども開催してるんですか?
座間味 そうですね。
個展はまだ2回しかやってないんですけど、それも本格的に絵一本でって決めた去年からの事ですね。
東京と、沖縄で1回ずつやらせて頂きました。
後はイベントにブース出店してそこで販売したり、人の繋がりやSNSで知ってくれた人からのオーダーだったり、徐々に広がってる感じです。
一応、作品としては
一つはお客様からのオーダーで描くもの。
もう一つは色々なテーマで僕の自由なイメージで描くもの。
の2種類に分けてるんですよ。
この「沖縄パワーアート」っていう屋号というか、活動名は最初からというか、徐々にそうなっていった感じですか?
座間味 まさにそうなんですよ。
最初は、譜久里武さんが全国に知り合いやファンがいるので、「僕の好きなアーティストがいるんでこの絵を見てください」ってアピールしてくれて、そこから全国にも一気に広がって。
そしたら、作品を買ってくれた人から「本当に元気もらった」「新しい事に挑戦する勇気もらった」って御礼の手紙を貰えるようになって。
その中で、何故か「まさかと思うこと事が起こった」っていう感じの手紙が増えてきたんです。
不妊治療してる方から「子供ができたんですよ!」とか
「探してたものが見つかった」とか
僕自身がびっくりしたんですけど。
「まさか〜!?」とか思いながら。
でも、一度だけじゃなくて、それがずっと今も続いてるんですけど。
色んな事に影響を、この僕が、絵を通して皆さんの生きている中で、影響させてもらってるんだなって感じて・・。
「パワーもらえました」とか「元気もらえました」っていう言葉をもらって、「沖縄パワーアート」っていう名称にしようと、僕も決めたんです。
黒瀬 なるほど。そういう事なんですね。
こういう風に絵に、意味とかメッセージが添えてあるのも分かりやすいし、心に響きやすいのかもしれないですね。
座間味 そうですね。
文章も好きだったので、絵を描いた時の想いを文章にして書き添えたりしてますね。
お守りとして持っておきたいって言ってくれる人もいるので、キーホルダーにして、その裏にメッセージを書いていたりとか。
素敵ですね♪いつもしている質問なんですが「誰にこういうメッセージを伝えたい」っていう部分でいくと・・
座間味 そうですね。
やっぱり、さっき言ったように、子ども達に伝えてることであり、自分が絵を描く時の気持ち。
それを伝えたいですね。
自分の素直、ありのままで良いから、好きなことをやって欲しい。
自分の置かれた環境で、自分の持ってるもので、地道に続けていけば、きっと花開く、勝てる時が来るからって事を信じて欲しいなって。
後は、「感謝」ですよね。
ご縁や人との関わりを大切にして、関わってくれる人、支えてくれる人への感謝の気持ちを常に大切にして欲しいって。
それが今の自分の生き方というか、色々な事があって、気づいて変わった結果の自分のありのままの気持ちですね。
今日はありがとうございました!このヒカリザクラ、直感で気になったので買って事務所に置きます♪
座間味 ありがとうございます!!
色々お話できて楽しかったです♪
以上でインタビューは終了となりました。
インタビュー以降、イベント等で座間味さんとお会いする機会が何度かあるのですが、誰に対しても人懐っこくて屈託のない笑顔で接する姿は、居るだけでその場の温度をあげてくれるような感じがします。
万人を魅了する人を「人たらし」と言ったりしますが、話してみないと魅力が分からない人もいますよね。
でも、座間味さんの場合は、離れていても魅力が伝わってくる感じで、何というか、温かいオーラの半径が広い感じ。
太陽のような人とは、こういう人の事を言うのかな?と思う程、笑顔とコミュニケーション力が素敵な方です。
絶賛しすぎですね(笑)
是非、沖縄パワーアートを生で見てみて下さい♪
絵もそうですが、座間味さんと会話するだけでもパワーを貰えますよ。
編集後記
インタビュワー:黒瀬 圭 Kei Kurose(株式会社ドリームテラー代表)
座間味さんの雰囲気や、コミュニケーション力の高さが個人的に大好きで、座間味さんの方が僕より少しだけ年上ですが、勝手に「ざまみ〜」という愛称で呼ぶことを宣言し、仲良くさせて頂いています(笑)
コミュニケーション力も、営業力もある方なので、これからもっとスゴくなると信じています♪