「演劇」を通じて先人から受け継いだものを後世へ伝え「生きている価値」「命の重さ」を伝えていきたい
作家・演出家として活躍されている畠山さん。
話が面白くて、本当に時間があっという間に過ぎ、最後はもっともっと話を聞いていたいという感覚に。
間近に舞台公演が控えている中で、快くインタビューをお受け頂けました。
取材日:2017.12.01 インタビュワー:黒瀬 圭の詳細はコチラ
畠山さん、今日はよろしくお願いします!早速ですが、畠山さんは現在、脚本や演出家をされていますが、幼少期からそういう興味はあったんですか?
畠山 いや。僕はもう完璧、ずっと野球でしたね。
野球少年だったんで。
小学校からずっと高校までやってて。
小学校からというとクラブチームとか、リトルリーグとか?
畠山 そうですね。
硬式でリトルリーグのチームに入ってました。
小学校の時は全国大会で大阪も行きましたよ。
当時の大阪球場で試合して。
おー!じゃあ地域で優勝するぐらい強いチームだったんですね。
畠山 ですね!
実家が埼玉だったんで、埼玉のボーイズリーグっていうのがあって、そこで埼玉県代表になって、小学校5年と6年は全国まで行ってますね。
スゴイですね!小学校でそれぐらいまで行くと、中学、高校と王道を進みそうですね。
畠山 中学もクラブチームに入りながら、野球部にも入ってたんですよ。
中学の野球チームが弱かったんですよね(笑)
僕はとにかく甲子園に行きたかったので、高校野球のための準備として硬式のクラブチームに入ってた感じですね。
なるほど。でも部活の弱いチームで1人レベルがずば抜けてると、イメージとしては主将で4番でピッチャーでみたいな。
畠山 いやいや、いやいや(笑)
僕はサードだったんで・・。内野手だったんですけど。
ただ、おかげさまで、高校から誘いが何校かきて。
で、行ったんですけど。
でも、こっからがもう・・。
おっ、何があったんですか??
畠山 高校は川越工業っていう甲子園に2回出ている当時スゴく強かったとこに行ったんですよ。
ただ、なんかね・・。
一応、当時「疲労骨折」っていう診断はうけたんですけど、もうね、そんな事よりも高校に行っちゃったら、急に嫌になっちゃった・・っていうか。
野球で高校に行っときながら(笑)
もう練習とかもね、なんか嫌になっちゃって。
(笑)疲労骨折とか、嫌になっちゃったっていうのは高1ですか?
畠山 高1ですね!
で、言われました。
自分を引っ張ってくれたマネージャーさんとかに「こんなに早く退部したいって言ったやつは初めてだ!!」って(笑)
せっかくスカウトしたのに・・。何割かの脱落は覚悟してるけども・・・って事ですよね!?(笑)
畠山 いや、僕ね、実は双子なんですよ。
双子で一緒に野球部にいって、双子で一緒に辞めてるんで、余計目立ったんじゃないですかね??
双子で二人とも推薦で川越工業に入って、同じ時期に辞めてるんですか?
畠山 はい。
そうです。そうです。
同時に疲労骨折したわけじゃないですよね??笑
畠山 いや、違います。違います。
もう片方は、疲労骨折ではないです・・笑
なんか気持ちやバイオリズムとかもシンクロするもんなんですかね
畠山 まぁ当時というか、中学ぐらいから若干グレ始めてるってところがあって。
今はまだ坊主って全然良いですけど、当時のあの80年代の坊主ってダサい以外の何物でもなかったんですよね。
だから髪の毛を伸ばしたくて伸ばしたくて。
そういう気持ちも手伝って、色々嫌になっちゃったんですかね(苦笑)
でも推薦で入ってすぐに根を上げたら、その後ってどういう感じになるんですか?
畠山 一応、公立高校だったので、推薦といっても「試験はうけて下さい」って感じだったんですよね。
特待生の制度もなかったので。
逆に言えば、試験を受けている以上は、野球部を辞めても「学校辞めて下さい」って事にはならないですからね。
男子校だったので、そのまま自由奔放な学校生活を楽しみました。
骨折が直ったからって、他の部活入りますって訳にはいきませんもんね
畠山 ですね(笑)
当時、音楽をやりたくて。
その時にドラムとかをやり始めたんですよね。
まぁ、バンドっていっても遊び感覚だったんで、もう、ほとんど高校は遊んでましたけどね。
でも、その時の音楽っていうのが、今の「芸能」の世界につながってると思うんですよ、やっぱり。
表現するって意味では。
例えば今、脚本とか演出してますけど、音の入れ方っていうか、自分のリズムっていうのは、ここからきてるんだろうなっていうのは有りますね。
なるほど!「遊び」っていってもライブとか人前で披露してリアクションを得るっていう経験値は得ていたわけですね。大学でも音楽は続けてたんですか?
畠山 もうね。大学は行かなかったんですよ。
とにかく働きたくて仕方なくて。
なんか「一人前になりたい!」って気持ちが強かったというか。
その頃から双子の兄の方とはパックリ分かれたんですよね。
彼は土建関係の方にいって、今は土建屋の社長をやってるんですけど。
で、今は僕はこういう事やってて。
こういう時期を振り返ると、両親、特におふくろには感謝しかないですね。
本当におふくろにはスゴイ迷惑をかけたし、親父がずっと単身赴任で色々なところに行ってたから、多感な時期におふくろしかいなかったという事もあって。
あの時に好き勝手やらしてくれたのが、現在につながってるのかなって思いますね。
今も両親は健在なんですけど、もう高齢になってきているので。
それもあって、ちょうど今月、東京から埼玉の実家に戻ったんですよね。
そうだったんですね。高校を卒業してからはどんな仕事をしたんですか?
畠山 僕は高校卒業して「録音会社」に入ったんですよね。
ラジオスポットとかCMとかの。
期間としては4年ぐらいだったんですけど。
そこにいる時は、ナレーターとかね、そういう音声を録音する側の仕事なので、テクニックの方に興味がどんどん出てきて、スゴく勉強になりましたね。
当時、またバンドをやってたんですよ。
やっぱり音楽関係との関わりも深いという事もあって、バンドマンが集まるような会社だったんで。
で、その人達とバンドを組んでやってたんですけど、結局うまくいかずに・・。
その時にたまたま「俳優の養成所のオーディション」みたいなのを見て
あんまり深い意味はなかったんですけど、そこを受けたんですよね。
そっからですかね「俳優」っていうのは。
21歳の時ですね。
なるほど。高校からバンドで表現というか表に立つ事を経験しつつ、社会人では裏方の仕事も覚えて、今度はまた、演者としての「俳優」に・・。
畠山 そうですね。
今度は演者の方に。
オーディションに受かったので、サラリーマンをしながらレッスンに通ってましたね。
遠かったんですけど。
で、さすがに、ぼちぼちキツくなってきたなって思って、23歳の頃かな、会社を辞めてフリーター生活に入りました。
今の若い子達が役者を目指しながらフリーターをするっていう、ああいう感じですね。
当時はやっぱり相当厳しかったですね。
色々な友達の家に泊めてもらったりして。
あの感じはもう2度とやりたくないです(笑)
そこは劇団?演劇の事務所だったんですか?
畠山 いえ、演劇に特化した事務所ではなくて、タレント事務所のようなところでしたね。
そこでオーディションとかを受けながら。
ただ、オーディションに受かったとしても本当にエキストラに毛の生えたような仕事だったので、大した収入にもならないんですけど、仕事を受けちゃうとバイトの方を休まないといけなくなるので。
タレント事務所の仕事をすればするほど、どんどん収入の面は厳しくなってきますよね。
じゃあ、タレント事務所時代はスゴイ大きい役を勝ち取ったりという事は無く?
畠山 ないですね〜。
事務所自体もいくつか渡ってるんですよ。
で、VシネマとかCMの業界2番手のようなところとか、そういうところで少しずつ仕事をしながら、バイトと両立して何とか食いつないでたって感じですね。
で、ある時に・・。
24とか25歳かな?
バイトをまた探してたんですよ。
その時にたまたま見つけたのが、ある劇団だったんですよ。
バイトで見つけたのが、劇団のバイトだったんですよ!笑
お〜!劇団のバイトってあんまり見たこと無いですね!
畠山 ですよね。
それが、どういう劇団かというと、地方を回っている劇団で。
要は3ヶ月か4ヶ月のスパンで地方を回って、また東京に戻ってきて、また地方を回るというような劇団でした。
「あっ、これ良いな!」って思って。
「飯もついてるし、中高生に芝居を見せてお金も貰えるし」ってことで。
それで初めて「舞台」というものに触れたんですよ。
で、子どもってリアクションがダイレクトじゃないですか?
それもまた楽しくて♪
そしたら、たまたま元々いた事務所も「舞台やるぞ!」ってなって、そこから「舞台」にベクトルがグッと向きました。
元々いた事務所が「舞台をやるなら、バックアップするよ」って事になったんですか?
畠山 いえ。
事務所に舞台部みたいなのがちょうど出来ることになって、たまたまタイミングが合致した感じですね。
「今、何かお前、地方で色々と舞台やってるんだろ?じゃあ、東京戻ってきたら一緒にやろうか?」って話になって。
なので、発起人が事務所の中に劇団を立ち上げた感じです。
それが最初ですね。
なるほど。じゃあ、それからは事務所が立ち上げた劇団がプロデュースする舞台が畠山さんの活動の場になっていったんですね。
畠山 そうですね。
ただ、いざ蓋を開けてみたら事務所は金は出さないし、放置状態だったんですよね(汗)
まぁ、好きな舞台をできてるしな・・って思ってたら、発起人の人が旗揚げ公演やって、1回やったらイキナリ辞めちゃったんですよ。
で、「次はお前が座長やれ!」って事になって(苦笑)
「座長やれ」=「脚本とか演出も全部やれっ!」て事ですよね!?
畠山 そうなんです。
ただ、演出もやったことがなくて全く分からないから、演出家は他の人を連れてきて、出来合いの本で最初やったんですよ。
でも、それでも全然自分の納得のいかない出来だったんですよね・・。
で、その時に・・。
僕、小説を読むのが好きだったんで、五木 寛之さんの本を読んでいた時に、「これ、舞台に出来ないかな??」って思って、その小説をシナリオに・・舞台の戯曲(台本)に起こしたんですよ。
もちろん、ちゃんと五木 寛之さんにも許可を取って。
なるほど。その台本を劇団の所属団員の方に「これでやろう!」って話をして。
畠山 そうです、そうです。
僕が「次の作品はこれで、自分が演出もやってみる!」って言って、進めたんですよ。
で、それが、その劇団としては3作目の公演だったんですけど、今までの公演の中で一番評価が高かったんですよね。
もしこれが、けちょんけちょんに言われてたら、僕は今、脚本・演出をやってないと思いますね(笑)
そうなんですね。評価っていうのは具体的にどういう感じで声を得るんですか?
畠山 観劇されたお客様のアンケートとかですね。後は関係者とかプロ側の目線でも。
「今までの中で一番良かった!」という声が多かったですね。
築地本願寺のブディストホールっていう、140ぐらいのキャパのところでやって。
舞台としてはオーソドックスな。
ただ、宮本亜門さんとかも最初の頃ここでやったっていう、演出家の登竜門的なところですね(笑)
27歳の時だったんですけど。
それが、演出家としてのスタートですね。
なるほど。それからはしばらく、その劇団で座長、脚本・演出をしながら公演を続けていったんですね。
畠山 そうですね。
一応、みんなには「リーダー」「リーダー」って呼ばれていたんで。
で、ここからの話を、僕・・。
ちょっと話が飛ぶんですけど
小説に書いたことがあって。
劇団が解散するまでの顛末とか、自分が得たエピソードを別の主人公を設けて、そこにトレースして、小説にしました。
それが松本清張賞の予選を通過したんですよ!
で、それを見た人が「これを、自叙伝的に電子書籍として出さないか??」って言ってくれて、俺出してるんですよ。
電子書籍として。
「wait」っていうタイトルで。
それが、こっからの話そのままなんですよ(笑)
「wait」ですね!読んでみます!!
畠山 ちょっと長いんですけど(笑)
まあ、こうやって劇団が始まって、劇団の中が色々入れ替わって、裏切りとかも色々あって。
でも段々だんだん、気がつけば自分の作品が映画化だ、ドラマ化だ、コミック化だって話になっていって。
当時、講談社とか東映の宣伝部の人とかのやり取りが始まったり、そこまでになっていったんですけど、最後に「スコーンッ!!」ってヤラれる・・みたいなね(笑)
おっと!本当に読みますから、これ以上のネタバレは(笑)畠山さんの中で一番メジャーな作品というと、どの作品になりますか?
畠山 今も沖縄でもやってるんですけど「永遠の一秒」という特攻隊の作品が・・。
あれが一番最初に「映画化しないか?」って言われた作品で。
あと、「海を越えた挑戦者たち」っていう首里高校がアメリカ統治下の中で、甲子園に出場した時の話を、沖縄の当事者にも取材してドラマにしてるんですよ。
こっちは実際にラジオドラマにはなったんですけど、でも映画化の話とかは、ことごとく頓挫したんですよね。
その中で、やっぱり「永遠の一秒」で舞台の話がきて。
それが2014年にニッポン放送の主催でグローブ座にやった時に、ブラザー・トムさんとか塩谷瞬君とかレーザーラモンHGとか、あの辺りの人が出演してくれて。
それが舞台の中で一番メジャーですかね。
畠山さんの中で一番想い入れの強い作品となると、やっぱり。
畠山 そうですね。
作品はやっぱり「永遠の一秒」になりますね。
自分の代表作なので。
自分がプロと言えるようになれたのも、あの「永遠の一秒」がキッカケだったし、逆にスコーンってやられたキッカケも「永遠の一秒」だったし。
そこに全て凝縮されている気がします。
プロになれたっていう部分なんですが・・・「自分はまだプロとは言えない」、「プロと名乗れる!」っていう感覚の切り替わりのポイントは何だったんですか?
畠山 「バイト辞められるぞ!」って思った時ですね。
それは収入面ですよね、やっぱり。
来年まで仕事のスケジュールが埋まっている状態で、何となく来年の年収計算・予想をして「これはイケるぞ!」ってなった時に、パッとバイトを辞めたんですよ。
で、その翌年1年は大丈夫だったんですけど、翌々年はダメでしたね(笑)
プロの定義って色々あると思うんですけど、この道一本って覚悟を決めて、お金の面でもこの道一本で・・っていう
畠山 僕は完璧そう思ってますね。
職業だと思ってます。
プロと名乗るんだったら「それを職業に出来ているかどうか?」に尽きると思ってます。
今、公演を控えている「ナガセ・アイランド」でもそういう台詞が出てくるんですけど。
特に、役者って、そのプロのラインがスゴく甘い気がするんですよ。
何か皆、全然食えてないのに、自分はプロの役者だって思い込みすぎちゃってる人が多過ぎるというか。
そこも、ちょっと辟易してた部分があったので。
畠山さんは沖縄を題材にした作品を作ったり、公演も続けられてますが、最初に沖縄に興味をもったキッカケって何だったんですか?
畠山 そうなんですよね・・。よく聞かれるんですけどね〜。
よくわからないんですよね〜(笑)
3年間、沖縄で舞台をやり続けてるんですけど、元々、沖縄自体は、旅行ではスゴく好きだったんですよ。
で、たまたま沖縄を題材にした「海を越えた挑戦者たち」っていう作品が評価されて「映画化しましょう」っていう話しになったんで、関係者の人と頻繁に沖縄を行き来しているうちに、どんどん繋がりが増えていったんですよね。
結局、映画化の話は頓挫しちゃったんですけど、「じゃあ、舞台はどうですか??」っていうことで、沖縄で舞台の公演が出来ることになって・・。
それが継続してるっていう感じなんです。
だからキッカケというと難しいですけど、最初は、たまたま沖縄の題材だったという。
今は結果的に沖縄との繋がりが深くなってますが、想い入れは変わってきましたか?
畠山 ありますね!
やっぱりこれだけ居ると、良い面も悪い面も見えてきて・・。
それも含めて、俺は沖縄好きだなって思いますね。
あと、沖縄の演劇界って過渡期を迎えている感じがするんですよね。
色んな意味で。
ちょうど今、変化している時期なのかな?って。
そのタイミングで沖縄で演劇に関わらせて頂く事になったのも、何かのご縁なのかな??・・って印象はありますね。
少し話が変わるんですけど、演劇とか作品の題材・テーマは演出家が全部見つけてくるものなんですか?
畠山 えっと、たまに、「こういうテーマで書いて下さい」って事もあるんですけど。
基本、自分の場合は、自分で見つけます。
で、だいたいやっぱり、僕の描きたいテーマって決まってるので。
後は、そのテーマをどういうモチーフにして描くか、どこをあぶり出すか?どういう風にあぶり出すか?っていう。
描きたいテーマ、結果として伝えたいテーマというのはどういうものですか?
畠山 僕、よく「縦のつながり」って言うんですけど。
要するにこの生命(いのち)って・・。
まあ、もちろん両親が2人いて、その2人にもそれぞれの両親がいて、それをずっと遡っていくと、もう天文学的な数字になるわけじゃないですか。
それを考えた時に「これ奇跡以外の何物でもないな!!」って思う瞬間があって。
だって、20代遡るだけで自分のご祖先様の数って100万人を越える計算になるんですよ!
しかもその1人が欠けただけで、自分に繋がっていないってことになる。
もちろんその中には当然、激動の時代もあったわけだし・・。
あの太平洋戦争も生き抜いてくれたご先祖様がいてくれたから、俺がいるんだよなって・・っていう。
それを色んな題材で表現できたら、「生きている価値」っていうか、「命の重さ」みたいなものを伝えられるのかな??って思ってます。
その軸でいくと、別に沖縄でなくても、日本でなくても、海外テーマの作品だって良いって事になりますか?
畠山 そうですね。
はい。良いと思います。
でも、やっぱり自分が沖縄に惹かれてるっていうのは、多分・・。
沖縄ってスゴい「先祖崇拝」の感覚があるじゃないですか?
清明(シーミー)であったり。
東京にいると、それがもう無いんですよね。
お墓参りっていっても、じゃあ親族全員集まるかっていうと、そういう訳じゃないし。
もう核家族になっちゃってるので。
だから、ご先祖様を崇拝する風習というか感覚がある沖縄っていうのに魅力を感じているし、どこかホッとしています。
先程、沖縄の演劇界が過渡期だと感じるという話がありましたが、演出家の立場から沖縄の演者さんや演劇界についてどういう見方をしていますか?
畠山 えっとですね。
自分の3年間の印象としては・・。
みんなプレーヤーなんですよ、沖縄の人って。
やっぱり目立つのが好きだし、歌とかダンスとか、本当に芸能の島ですよね。
ただ、それを演出する側とか、脚本に起こす人っていうのは・・正直言って薄いと思うんですよね。
やっぱりそういうのをやっている人達もプレーヤーだから、全員がプレーヤーになってしまっているって印象ですね。
逆に言えば、みんなスゴくポテンシャルは高いです。
逆に、演劇をやっている若い人達がどういう風に取り組んでいくべきか?もしくは、伝えたいことってありますか?
畠山 俺、今やってるのが・・
他の演出をどういう風に受けているのかがよく分からないので、リサーチするんですけど、中々みんな言葉に出来ないんですよね。
「どういう演出をされているのか??」って。
なので、役者側としてやるべき事、例えばシナリオ・本の読み方であったり、一つの役の作り込み方であったり、そういう基礎的なものが学べてないと思うんですよね。
でも持っているポテンシャルとか感性で、場当たり的に出来ちゃう人もいるぐらいなので、逆に言うと、そこの基礎の部分が出来てくると、もっともっとより良くなるんじゃないのかな?と思うんですよ。
だから、若い子達にはそこの部分を重点的に言ってますね。
本来は、演出家とか脚本家って言われている人達がもっともっと色んなものを見て、内地の芝居も見て、この子達に伝える・・って事をすれば一番良いと思うんですけど、中々みなさんプライドもあるし・・。
なるほど〜。畠山さんの今後の展望を教えて頂けますか?
畠山 今、「インヘリット東京」と、「インヘリット沖縄」って2つを同時にやってるんですよね。
現状、沖縄の方がウエイトが高くなっちゃってるんですけど、ちゃんと東京の方もやりつつ、沖縄ではスクールとまではいかなくても、若手の役者を育てていけるような・・・ちゃんとした地盤を作りたいなって思いますね。
ただこっちに着て芝居を作るだけではなくて。
ちゃんと東京とのパイプを作れるようになれば、沖縄の役者が東京の舞台に立つとか、その逆も含め、そういう橋渡し的な事が出来れば良いかなって思ってます。
沖縄の演劇界に問題提起をするだけじゃなくて、畠山さん自身も育成に取り組んでいくという話を聞いて、覚悟のようなものを感じました!
畠山 今度、公演する「ナガセ・アイランド」っていう作品にもそういうニュアンスを出してるんですけど、そういう問題提起に関しては賛否両論あるんですよね。
若干、ビビってますけど(笑)
でも今回、沖縄芸能の大御所の方にも出演して頂くんですけど、そういう人達でさえ危機感を感じていて、「今の沖縄の演劇界に畠山さんは必要な存在なんだよ」って有り難い声もかけてくださっていて。
ただ、その方達が伝統芸能として伝えているものでさえも、このままだったら危うくなるんじゃないのかな・・って。
だとしたら「変えるんだったら、今なんだろうな」って、正直、今感じています。
だから、過渡期なのかなって・・。
受け取り側の感性が変わってきているから、そこに合うようにカスタマイズするフィルターを「演出」っていう部分でかけていかないと、もうニーズに合わないとか、受け容れられなくなっていくって事ですか?
畠山 そうですね!
ちゃんと伝統芸能として、良いところはしっかり受け継いでいって、その上で変わっていくというか。
だから今、歌舞伎なんてスゴイ挑戦してるじゃないですか。
俺、あれスゴイ試みだと思うんですよね。
そうですよね!ワンピース歌舞伎とか
畠山 そうそう。
実際、お客さんも増えてますしね。
そこで、取っ掛かりを作れば、本当の純粋な歌舞伎にも興味を持つ人は出てくるだろうし。
舞台や演技に興味がない人でも、人生に取り入れられるエッセンスのようなものがあれば是非知りたいんですが、「演技をする」「表現する」っていう事は、人生や生活にどういう影響があると思いますか?
畠山 自分が主催しているワークショップ(演技や表現を学ぶ)で、それを話したんですけど。
「舞台上で役を生きるって、つまりどういう事だと思う?」
みんな演出家に「もっと役を生きろ!、役を生きろ!」って格好良いこと言われると思うんだけど、じゃあ、とどのつまり「役を生きるってどういう事よ??」って聞くと・・・
やっぱりみんな答えられないんですよね。
その言葉ばっかりが先走っちゃってて、その中身をちゃんと理解していない。
で、僕は・・必ずプロが書いたシナリオっていうのは、その登場人物が何かしらアクションを起こしている、行動を起こしている・・・と。
そして、その行動には必ず目的があるから。
その目的を達成させるための「アクション」、「行動を取る」事が、俺は役を生きるってことだと思う。
だから役者っていうのはアクターって言うんだよ。
行動する人だから、アクター。アクションする人間だから。
そう考えると、役を通じて、その役を生きるっていうことは「目的を持って、行動を起こす」ってこと。
これって、ビジネスにも普段の生活にも全部イコールにならない?
自分が実際に役を生きることによって、自分の人生にも、ビジネスにもトレースできる。
僕は、ただ役者になりたい人だけじゃなくて、やることによって、色んな応用が効くものが「演技」ってものなのかなって思います。
と、まあこんな話をしています。
深いですね!!ワークショップは沖縄でもやっているんですか?
畠山 そうですね。
つい先日終わったところです。
3週間のワークショップ(週4回、計12回のカリキュラム)でした。
それをやるだけでも、演技面だけじゃなくて、仕事の見方とかも結構変わるんじゃないかな??って思いますね。
今回反響が大きかったので、定期的に出来たら良いなって考えてます。
おー、そんなに壮大なプログラムになってるんですね!スゴく興味が有ります!
畠山 ジャン・ジャック・ルソーの言葉に「生きるとは呼吸することではない。行動することだ」って言葉があるんですけど、本当にそのまんまだと思いますね。
ここまで聞いて良いのか分からないんですが、「役を生きる」っていうのは具体的に言うと、演技をする人は何をするんですか??
畠山 だから、やっぱり「シナリオ分析」っていうのが必要なんですよ。
例えば、ドラえもんの「STAND BY ME」ってあったじゃないですか?
あの一つの映画を・・・
じゃあ「ドラえもんの目的は何だ?」「ドラえもんは、どういう行動を取っているんだ?」っていうのを分析してみよう!っていう場合。
ドラえもんの行動っていうのは「一貫して、のび太くんを助ける行動」を取っている。
アクションとしてですね。
じゃあ、その目的は何か?
実はあの時のドラえもんっていうのは、早く21世紀に戻りたいんですよ!笑
早くのび太くんを一人前にしないと、戻れないので。
もう、これにかかってるんですよ。
ただ、最後の方にいくと色んな感情とかも、ドラマが進むに連れて変わってくるので、その目的っていうのは「帰りたい」ってところから変わるかもしれないけど、最初の目的はそうだった。
でも、そうやって変化していくのが、ドラマだから。
その分析なんですよね。
それでいくと一つの役を考えるだけじゃダメって事ですよね。相互関係があるから、自分の役だけじゃなくて、周りの役や環境も全部考えて、さらに、ここの関わりでこういう感情の変化があったから・・というような。
畠山 そうですよね。
だから、これシナリオライターの鉄則なんですよ。
「個」を確立するためには、必ず他者の存在って必要なんですよ。
だから他者をブツけるんですよ。
よく、「テーゼ」と「アンチテーゼ」と「ジンテーゼ」っていう言葉があるんですけど。
テーゼが自分で主人公だとしたら、それに対してライバルをつけるのが「アンチテーゼ」なんですよ。
ここで争う事によって、自分が成長した自分になって「ジンテーゼ」になる。
こういう構造は連鎖があるんです。
うぉ〜!!めちゃくちゃ面白い!ずっと聞いてたくなってきました!!笑
畠山(笑)
っていう事もワークショップでやってますね。
最後になりますが「誰に」「こういう想いを伝えたい」というメッセージがあれば聞かせてください
畠山 今はやっぱり沖縄で、役者を目指すとかじゃなくても、何か自分を表現したい人に。
後は、演出したいとか、自分で作品を作りたいとかって人でも良いし。
そういう人達とつながって、もっともっとこういう話をしたいですね。
まずはこういう話を(笑)
僕も色んな意見を聞きたいし。
じゃあ、こういう人にこうなって欲しいというよりは、まずは繋がって・・
畠山 そうですね。
まぁ、なって欲しいというのは、沖縄の演劇界というものが、もっともっと多様性を帯びてくると、さらに発展していくだろうなって思うし。
そのポテンシャルはスゴイものがあると思うので。
みんなで仲良くしようって言うんじゃなくて、多少バトルになっても良いから、より良くするために、もっと議論して高め合いたい、という感じですね。
畠山 そうですね。
ナガセ・アイランドでも一つのキャッチフレーズとして「助け合いと馴れ合いは違うから。」ってコピーがあるんですけど。
一つ、そこはあると思いますね。
これは沖縄のみならず。
なるほど。畠山さんが提供できる価値というとどんなものがありますか?ワークショップなど色々とあると思うんですが。
畠山 そうですね。
ホームページにも書いてるんですが、「インヘリット」というのは受け継ぐっていう意味で、先人から受け継いだもの(インヘリット)を後世へと伝えていく。
その媒体(メディア)として我々(演劇)が存在する。
そんなコンセプトでやっているので、これからもそういう事をやって行ければ良いなと。
ワークショップの方でも、演技だけじゃなくて、自己表現とか、目的を持って行動する意識とか、色々なものを学んだり感じとってもらえると思うし。
子ども達向けのワークショップをする等のイメージはあったりしますか?
畠山 今後、それも出来るのかな?とも思うんですけど、今そこまで拡げ過ぎちゃうと、自分も散漫しちゃうのかなって思うんですよね。
今はある程度 絞った上で、だんだん拡げていければ良いのかなって思いますね。
で、子ども達だけじゃなくて、逆もあると思うんですよね。
今後、どんどん高齢者の方も増えますし、その人達のフェードアウトの仕方みたいな。
フェードアウトっていっても、決して後ろ向きな感じじゃなくて、もっと前向きなフェードアウトってあるだろうし。
そういう事もやりたいなって思いますね。
なるほど。終活っていうテーマが出てくるのは予想外でした!でも畠山さんが大事にしている「縦のつながり」で考えると、高齢者の方も、子ども達も全ては繋がりですし、いずれは拡げていきたいという事なんですね。今日はありがとうございました!楽しかったです!
畠山 そうですね。
ありがとうございます!
是非、今度飲みながらもっと話をしましょう!!
以上でインタビューは終了となりました。
畠山さん、本当にありがとうございました!!
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▼直近の公演情報:2017年12月19日・20日 19時開演/豊見城市立中央公民館 大ホール
映×劇 「ナガセ・アイランド」
作・演出 畠山貴憲
日時:2017年12月19日(火)・20日(水)
開場18:30 開演19:00 ※両日共通
場所:豊見城市立中央公民館 大ホール
(豊見城市字平良467番地1)
料金
前売:一般 3000円 小中高生 1500円
※当日共に300円増
キャスト
町田達彦
柳田京香
津波竜斗(Team Jasper +)
武田聖爾(プロダクション キャッツアイ)
平良立子(劇団 綾舟)
三宅唯尊
よなは徹
儀間咲彩(INFRONT PRODUCTION)
うどんちゃん(劇団OOC)
津波将平(劇団 賞味期限)
ASAMI VICTORIA(INFRONT PRODUCTION)
髙宮城実人
第51回沖縄タイムス芸術選賞 映像演劇部門大賞
出口裕子
ピエロのファンキー
福地涼(オフィス・リゾム)
崎山一葉(オフィス・リゾム)
饒平名理佐(オフィス・リゾム)
畠山貴憲
《特別出演》
平良進(劇団 綾舟)
沖縄県指定無形文化財琉球歌劇保持者
スタッフ
舞台監督・美術 仲宗根満
照明 棚原栄作
音響 松尾智博
演出助手 出口裕子
制作 幸地尚子
プロデューサー 西平博人
▼問い合わせ・チケット予約
チケット予約フォーム
https://www.quartet-online.net/ticket/nagase
TEL:090-8292-8523(西平)
メール:inherit.project.okinawa@gmail.com
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インタビューの後、約束通りというか、純粋に興味もあって、電子書籍で「wait」を読んだんですが、これがガチで長くって・・(笑)
でも、のめり込んで読めたのであっとういう間に読了しました。
そして、その結果、畠山さんという人物に興味津々になってしまいました!笑
インタビューの際も、合間合間でインタビュワーである僕の事にも興味を持って質問してくれたので、いつも以上に自分の事を語る事になり、その感じも楽しくて。
それと、記事としてはボリューム満載なんですが、インタビュー時間としてはかなりコンパクトに終わったんですよね。
そこもきっと畠山さんが受け答えの中で、僕が聞くべき事、畠山さんの話したい事がスムーズに盛り込まれるようにコントロールしてくれたような気がします。
「これが、演出家の力なのか!?」と、些か興奮気味な僕ですが、ナガセ・アイランドの稽古も見学に行き、社交辞令ではなく、実際に畠山さんと飲みに行く約束も実現できました。
今後、何らかの形で仕事でもご一緒できる事を妄想しています。
畠山 貴憲(ハタケヤマ タカノリ)/作家、演出家
1997年〜劇団『THEATER JUNK』の座長を務め、役者の傍ら脚本と演出も兼任。
2003 年『永遠の一秒』が、萬スタジオバックアップシリーズ最優秀審査員賞を受賞。
2004年『海を越えた挑戦者たち』はFM 沖縄制作のラジオドラマに選出される。
2010年 東京グローブ座にて『永遠の一秒』を再演。
2015年 インヘリット東京とインヘリット沖縄を発足し、『永遠の一秒』が第27 回池袋演劇祭で優秀賞を受賞。
2017年 沖縄、瀬長島を舞台にしたナガセ・アイランドの公演を行うなど、沖縄でも勢力的に活動中
インヘリット沖縄、インヘリット東京
URL:https://inheritokinawa.wixsite.com/inheritokinawa
畠山 貴憲さんと繋がるには?
編集後記
インタビュワー:黒瀬 圭 Kei Kurose(株式会社ドリームテラー代表)
畠山さんとお会いするのは、実はインタビューの時が初めてだったんですが、話し始めてすぐに心を掴まれました。
とにかく楽しかったんですよね。
ワークショップの中身の話なんかは、もう興味が湧きすぎて大変でした。
記事を読んだ方が、僕と同じように畠山さんの魅力に触れ、「この人が演出する舞台を見てみたい!」と一人でも多くの人に感じてもらえると幸いです。