喜久川 由美

ビューティーケアリスト

Discover Make

生年月日:

出身:沖縄県

活動エリア:沖縄県

提供できる価値過去や環境がどうであれ、人は変われるという事を証明する「希望」のような存在でありたい。
こんな人と繋がりたい!波瀾万丈の人。私の知らない世界の事を教えてくれる人。私が気づいていない魅力に気づかせてくれる人。
喜久川 由美さんを知る
キーワード
  • 過酷だった幼少期
  • 勉強よりも身体を動かす事が大好きなアクティブ派
  • 専業主婦歴が長く、起業家としては遅咲き
  • メイクアップアーティストではなくビューティーケアリスト
  • 内面に寄り添い、自分を発見するお手伝いがしたい

内面に寄り添うビューティーケアリストとして、素の自分・なりたい自分を発見するお手伝いがしたい!

いつも笑顔で立ち居振る舞いも美しい由美さん。インタビューで過去の話をお伺いすると、外見だけでは分からない、波瀾万丈の過去が隠されていました。

取材日:2017.12.07 インタビュワー:黒瀬 圭の詳細はコチラ

今日はよろしくお願いします!色々とイベント等ではお会いする機会がありますが、じっくりお話する機会は初めてですね。

喜久川 はい。よろしくお願いします!

 

幼少期について

早速ですが、幼少期から遡って伺っていいですか?

喜久川 はい♪

幼少期というか、赤ちゃんの時にスゴく・・生きるか?死ぬか?ぐらい衰弱してたらしいんですよ。

おっぱい飲んでもすぐに吐いちゃう感じで。

 

で、母親が19歳で、父親が20歳の時の子どもだった事もあって、手に負えない感じで、大宜味村の喜如嘉(きじょか)にいたおじい、おばぁのところに預けられたんですよね。

喜如嘉は芭蕉布で有名なところなんですけど、父親がそっちの出身で。

 

 

そこに母と一緒に来なさいって呼ばれていって、しばらくお母さんも一緒に居たんですけど・・。

大人の事情もあったんですかね?母も若いから・・那覇に帰っちゃったんですよ。

 

で、私はそのまま、おじい、おばぁに預けられたんですよ。

 

そうなんですね。その時はお父さんは?

喜久川 お父さんは、お父さんで国頭でうなぎの養殖の仕事をしてたので、国頭村に居たんですよ。

そんな感じで、おじい、おばぁに5歳まで大宜味で育てられて・・。

 

だから、自分の根底の中に「親が居なかった」っていう感覚があって、喜如嘉の部落中のおじい、おばぁに可愛がって育ててもらったんですけど、やっぱり両親が居ないっていう寂しさを抱えて過ごしてた気がしますね。

今思えばですけど。

 

地域の保育園とかにも通わず、ずっと地域のおじい、おばぁが皆で面倒を見てくれたって感じだったんですか?

喜久川 そうですね。

それで幼稚園に上がる頃に、母親の元に戻されたんですよ。

 

これは那覇ですか?

喜久川 そうですね。首里の方に。

その後は、城北小学校、首里中学校を出てって感じで・・しばらく首里ですね。

 

そこからまた母親と一緒に暮らすようになったんですよ。

で、あたしが5歳の頃に2番目の子、弟が産まれたんですよね。

 

えっと、それは、お母さんが那覇に帰ってから、また別の男性と交際してっていう・・?

喜久川 ううん、違います、違います。

もう父親は1人です!笑

離婚はせず、別居状態で。

 

あっ、別居状態で!でも、また次の子が・・

喜久川 そうそう、そうそう!

 

なんか不思議な夫婦ですね・・笑

喜久川 そう、不思議な夫婦なんですよ〜。

 

未だにそうなんですけどね。

未だに、別居状態で・・(笑)

 

で・・・兄弟が5人いるんですよ!!

 

(笑) いや、これはちょっと聞かないパターンですねww

喜久川 でしょ!!笑

しかも年子だったわけ!

 

私が5歳の時に2番目が出来て、そこからは全員年子なんですよ。

5歳から、毎年、弟や妹が産まれてくるっていう・・。

 

もう両親、一緒に住めば良いのにっ!!笑

喜久川 ね〜!(笑)

 

5歳までおじい、おばぁに可愛い可愛いって育てられて。

で、やっとお母さんの所に戻れた〜って思ったら、毎年毎年、弟や妹が産まれてくる感じになって・・。

 

だから、いきなりお姉ちゃんにならないといけなくて・・。

 

そっか〜。急に役割が・・

喜久川 そう、長女としての。

だから、母親には甘えられなかったんですよね。

 

幼少期、一番甘えたい時期にずっと甘えられなかったんですね。

喜久川 ですね〜。

それで、父親がすごい大きな借金をしちゃったから、母は朝から晩までずっと働いてて、結局 母には甘えられず。

ワガママ言いたくてもグッと堪える・・みたいな。

 

そんなのがずっと続いてて、家がずっと貧乏だったから・・。

 

 

どれぐらい貧乏だったかと、言うと。

野菜が買えなかったから、小学校からお家に帰るまでの道すがら・・首里だったので結構、野草があって・・。

 

母親が久米島出身で野草を知ってたから、道を一緒に歩いて、オオバコとかタンポポとか「コレとコレは食べれるから、帰りに摘んでおいで」って言われて、道端のタンポポとか食べれる野草を取ってましたね・・(汗)

それが、おかずになったりとか。

 

で、昔は商店とかで大きいバケツにもやしが売られてて、うちが貧乏って商店のおばちゃんも知ってたから、大量に入れてくれて。

1週間、もやしが続いたり。

 

戦後かっ!!っていう感じで(笑)

 

お〜!今でも、もやし嫌いだったりします??

喜久川 出来れば、あんまり食べたくないかな(笑)

 

それとか、お家の向かいがベーカリーだったから、サンドイッチ用に切り落としたパンの耳をくれたり。

私を見たら「おいで〜、おいで〜。これ持っていっておやつにしなさい〜」って。

 

でも、いつもおやつがパンの耳だったから、あの白い所も食べたいなぁ・・って(苦笑)

 

大人になってからサンドイッチ作る機会もありますよね?その時は、パンの耳どうしました??

喜久川 ちゃんと、砂糖まぶしておやつにしました(笑)

 

そのぐらいねぇ、何かホントに戦後みたいな生活を送ってましたね。

私、44年生だから、周り見てもそんなに貧しい家庭は無かったと思いますね・・。

 

そっかぁ・・。小学校は給食があったんですよね??

喜久川 そうそう、給食はちゃんとあって。

 

黒瀬 何か、今の話聞いてたらスゴイ反省します。

僕、甘やかされてて、子どもの頃は野菜めっちゃキライだったんですよ。

 

で、小学校はパン給食で、子どもの体格の差があるからパンの半分は残して持って帰って良いってルールがあって。

ロールパン2個の時は1個、大型コッペの時は半分残して良いって感じで。

 

喜久川 へ〜。そうなんですね〜。

 

黒瀬 で、野菜がとにかくダメだったんで。

パンの中身をくり抜いて食べて、先生の目を盗んでそこに野菜を必死で詰めんで、それを持って帰って捨てるっていう・・苦笑

 

由美さんの話の後だと、超最低のエピソード(笑)

 

喜久川 え〜!頭が回る子どもですね。ウケる(笑)

 

いや・・。本当に申し訳ございません!

喜久川 (笑)

 

そう。だから、私はずっと貧乏だったから、いつしかねぇ・・我慢グセと、「どうせうちは貧乏だから・・」「兄弟もいっぱいいるし、ワガママ言えないから」っていう諦めグセが自然に培われてしまったっていうか。

 

部活やりたいけど、家の事しないといけないから出来ないとか。

 

長女だから下の子に譲らないといけないし、率先して諦めないといけない・・みたいな感じになりますよね。下の子は性別はどんな感じですか?

喜久川 2番目が男で、後は全員女ですね。4姉妹に男が1人っていう。

だから、洗濯とかも間に合わない。

 

当時、洗濯機が二層式だったから、洗濯が終わったら一回取り出して、タライみたいなのでゆすいで、また入れて〜・・みたいな事をずっとやってた記憶がある(苦笑)

 

なんかお寺の修行に出されてるかの如く・・。

喜久川 そうそう、そうそう!!笑

 

で、みんな周りは美容室いって髪きるわけ。

 

でも私は母親がいつもこうハサミで、ワカメちゃんみたいなカットをして・・。

「私も美容室行きたい〜」って、ずっと思ってましたね。

 

小学校の友達とか、あからさまに「由美ちゃんのお家は貧乏・・」みたいに分かる感じだったんですか?

喜久川 そこはあんまり無かったと思うんですけど、でも「お下がり」が多かったから・・。親戚とか知り合いの。

 

だから、ちょっと古い。

 

みんなは可愛いオシャレなやつ来てるけど、私はワンピース着てるとか、ちょっと時代遅れっぽい。

それをバカにされた事はあったかなぁ。

 

劣等感とかって、自分の我慢とか諦めグセっていうよりも、周りとの比較で感じるものですよね。

喜久川 そうですね〜。

ランドセル新しいの良いな〜とか、そういうのはあったかな。

 

学生時代

そっか〜。小学校はそんな感じで、中学校も地元の公立ですか?。

喜久川 そうですね。首里中学校で。

 

でも全然ね〜。勉強がとにかくキライで〜。

ただ、父親が週末だけ、たま〜に帰ってくるんですけど、父親が着たら「緊張」みたいな。

怒られるから。

 

あ〜、お父さん厳しかったんですね。

喜久川 そう、厳しいのと・・。

うちは父親は普通の沖縄の先祖崇拝。で、母親がキリスト教徒だったから。

お母さんの前ではお祈りして御飯食べないと怒られるし、お父さん居る時はしたら怒られるし。

 

だから、お父さんが居る時は常に緊張して、目を盗んでサッとお祈りしてから御飯食べる・・みたいな。

 

「天にまします我らの父よ、アーメン」みたいなやつですよね?

喜久川 そうそう!

 

常に大人に挟まれてた気がする。

それで、大人の顔色を伺いながら過ごす癖がついて、常に良い子ちゃんじゃないといけない・・みたいな。

だから、私、反抗期なかったんですよ。

 

そっか〜。反抗期って一種の甘えの表現みたいなものにも思えますよね。そもそも甘えれないから、反抗しても何も生まれないっていう・・。

喜久川 うん、うん。

で、父親が着たら、いつも「おつかい」に行かすわけ。

 

帰ったら「いくら渡して、いくらの物を買ったから、お釣りはいくら」って事を言わされてて、私は算数が嫌いだったから、間違ったら怒られるし、その恐怖で算数が更に嫌いになった感じで(苦笑)

 

なるほど〜。なんか「貧乏だから勉強頑張って、私が・・みたいな意識になるのかな??」っていう先入観的なイメージを持っていた自分を反省してます。勉強以外で好きな事ってあったんですか?

喜久川 とにかく勉強は嫌!・・だけど、身体を動かすのが好きでしたね〜。

 

で、美術とか家庭科のお裁縫とかも大好きって感じで。

だから、勉強の主要科目以外のものは全部好きでしたね(笑)

 

その頃は将来の夢とかはあったんですか?

喜久川 まっったく、無い!笑

現実が厳しすぎて・・。

 

最近、学校からの依頼で、生徒向けに講話とかお話する事もあるんですけど、「あれっ、小学校の頃って私、夢があったかな??」って思ったら、無かったな〜って。

 

 

成績が、1学年500人ぐらいの中で400番台。

英語、数学、理科は5段階の3か2で、体育とか美術とか家庭科はずっと5でしたね。

 

体育とか大好きで、体調悪くて休んでるのに、行きたくてしょうがなくて、体育の時間だけ出たりしてました(笑)

だから、得意不得意がスパッと分かれてる感じで。

 

なるほど〜。高校の進学はどういう風に考えてたんですか?

喜久川 中学の時は、部活をする時間も無かった感じで、お家の事をずっとして。

 

高校進学は、描くのとか作るのが好きだったので、最初は首里高校の染織科っていう紅型を教わるところがあって、そこを受けようと思ったんだけど、先生が「えっ、あんた一生 紅型して生きていくの?やめときなさい。就職大変だから」って反対されて、「じゃあ・・・浦添工業のデザイン科に行きます!」って言ったら「あんたの成績じゃちょっと厳しいから・・」って事で、推薦をしてくれたんですよ。

 

で、推薦で受けたら、落ちて・・(笑)

 

えっ!ごめんなさい、推薦って受かるイメージしかなかった(汗)

喜久川 「じゃあ、どうする?もっかい普通に受験する?」って先生に聞かれたんですけど「もう良いよ。推薦落ちたから、良いよ。」って、ふてくされて。

 

それで、仲の良い友達が真和志高校に行くって言うから、「じゃあ私もそこに行く〜!」って感じで、もうヤケクソで高校を決めて・・笑

 

まあ、学校は楽しかったんだけど、学費を稼がないと行けなかったわけ・・。

今は教育の無償化とか言われてたりするけど、当時高校も・・2万近く出てたかな?

 

それって年間一括とかじゃなくて、毎月払う感じなんですか?

喜久川 そう、毎月、毎月。

だから、自分で稼がないといけないし、免許も取りたかったから、バイトに明け暮れて。

 

高校3年間ずっとロッテリアでバイトしてたんですよ。

しかも時給が324円とか!!笑

 

えっ??(笑)

喜久川 アハハハハハッ

ビックリでしょ??

 

はい。今、消費税8%だから324円って馴染みがある数字ですけど・・かなり衝撃です。当時の最低賃金とかですか?

喜久川 そう!最低賃金ぐらいだったと思う。

高校生だしね。

 

で、3年間バイト頑張って、学費払いながら免許の15万もキッチリ貯めて。

 

15万っていうと教習所に通う費用ですよね?頑張りましたね♪

喜久川 そう!

でも、それってスムーズに受かっての金額だから、「試験にも絶対落ちれない!!」ってプレッシャーの中で頑張って、必死で一発合格して(笑)

 

だから勉強は、もう そこそこというか、何とか赤点とらないぐらいの感じで卒業して。

 

ずっとバイトに明け暮れてたから、卒業後どうしよう??って感じだったんだけど、親戚のおばさんが発達障害というか先天性の知能の遅れがある子ども達の施設で働いてて「大変だけど、楽しいよ〜〜♪」って、すごく生き生きとしてたんですよね。

 

それで「あ〜こういう仕事にいきたいな〜」って思ったんですよ。

 

で、保育士の資格が必要なのと、社会福祉主事っていうのも必要って言われたから、短大の通信に行こうと思って近畿大学女子の通信に通ったんですけど・・。

 

ロッテリアのバイトだけだと全然学費が間に合わなくて。

 

それって、通信教育とかじゃなくて校舎が沖縄にあったんですか?

喜久川 そうそう、一応学校もちゃんとあって。

サテライト校みたいな感じかな。

 

で、そこを半年間頑張ったんですけど・・やっぱり学費が払えず。

「やっぱり無理!」って言って、大学を中退して。

 

そっか〜。じゃあ、資格も取れず・・。

喜久川 そう。

じゃあ、どうしようかな??という事で・・

 

歯医者さん良いかも!って思って、歯科衛生士の学校にいこうって思ったんですけど、そこも学費高いし、受験期間のタイミング的にも合わず・・。

 

で、諦めずに探してたら、歯科助手学院っていうのを見つけたんですよ。

 

「歯科助手かぁ。歯医者さんで働けるなら、良いや!」って事で、その学校に入ったんです。

そこは、個人がやっているところで、分割払いも出来たから。

 

歯科衛生士は国家資格で、歯科助手は民間が発行できる資格なんですよ。

 

やっている事はそんなに変わらないんですけどね。

ただ、給料面では全然違いましたね〜。。

 

歯科衛生士とか歯科助手さんって美人なイメージが強いです♪当時の写真とか無いんですか??

喜久川 当時の写真は無いです!笑

あの頃は18、19歳ぐらいだから。

 

で、そんな感じで資格とって仕事して、21歳で結婚したんですよ。

 

もうね。

結婚したのも、早く家を出たかったら。

 

そうなんですね〜。ある程度、しっかりした収入も得れるようになって、家にお金も入れてた感じですか?

喜久川 ちょっとだけですね。

歯科助手学院の時の学費も返さないといけなかったし。

 

でね。手取りも安かったんですよ〜。

月6万円ぐらい・・。

 

ビックリでしょ!?

正社員だよ、正社員!!笑

 

結婚〜出産

安いですね〜。それだと学費返して家にお金入れたら無くなっちゃいそう(汗)結婚ですけど、旦那さんとの出会いはどんな感じだったんですか?

喜久川 出会いは・・。

去年、結婚を卒業したんですけどね。

 

出会いは、ロッテリアの隣の会社だったんですよ、彼の会社が。

店長とそこの社長さんが仲が良かったので、よく一緒に集まる機会があって。

 

元旦那さんは年齢は上の方だったんですか?

喜久川 そうですね。8歳年上で。

付き合ったのは高校を卒業した後ぐらいのタイミングだったんですけど。

 

で、21歳で結婚して、家を出て、そこからはしばらく専業主婦ですね。

 

そうなんですね。お子さんが産まれたのはいつぐらいの時期ですか?

喜久川 22歳の時ですね。長女が産まれて。

 

でね。

私は昔からずっと子どもが出来ないって言われたんですよ。

 

それは何でですか?

喜久川 なんかね、不正出血がずっとあって、歯科助手の学校の時にそれを同級生に話したら、「うちのおじさん産婦人科だから行ってみたら?」って話で相談にいったんですよね。

 

で、「母親はいくつで産んだの?」って聞かれて「19の時です」って答えたら、「じゃあ、妊娠は18歳か。母体が未完成のまま妊娠して子供を産んだ時に、生殖器に異常が出るケースがあるから、そのパターンかもね〜」って言われて、更に色々調べてもらったんですよね。

 

そしたら、脳が排卵をしなさいっていう司令を出してないって。

 

えっ、そんな事まで判るんですか!?

喜久川 だよね〜。

で、「身体が悪いんじゃなくて、脳の問題だから治療はしてみるけど、もしかしたら子供は出来ないかもよ〜」って言われて。

 

そこからは2年間以上、ずっと薬を飲んでたんですよ。

 

なるほど。でも、結婚して結構すぐに妊娠したんですよね?

喜久川 そう!

妊娠したって言ったらお医者さんもビックリしてて、なかなか母子手帳も出してくれなかったんですよ(汗)

 

「いや、医学的にあり得ないから!」って言われて。

じゃあ、何でずっと治療してるの??って感じだったけど(笑)

 

その言い方は傷つきますよね。初の妊娠で不安定な時期のママさんにはキツ過ぎる。

喜久川 だよね。

でも、心音が聞こえるようになった頃ぐらいに「あっ、ちゃんといるね。」って事でやっと母子手帳を出してもらえて。

 

で、無事に長女が産まれた時に・・

その先生が「この娘はもう兄弟は出来ないと思うから大事に育てなさいよ〜」って言うから

 

じゃあ・・って事で、長女には「唯一の宝物」って想いを込めて「唯(ゆい)」って名前をつけました。

 

おー!素敵な名前ですね♪

喜久川 はい♪

 

でも、そしたら24歳の時に2番目が出来て・・(笑)

 

先生はまたビックリして「よっぽどタイミング狙った!?」って聞くけど、「いや、別にそんな事も全然ないけど・・」って感じで。

そして、また母子手帳を発行してくれず・・。

 

その先生に僕からツッコミを入れるのはやめておきますね(笑)2番目のお子さんのお名前は?

喜久川 下の子も女の子なんですけど、まるで夢のような子って事で「夢(ゆめ)」にしました。

一文字で。

 

長女が今26歳、次女が24歳ですね。

 

今はお二人とも沖縄にいるんですか?お仕事とかは?

喜久川 長女はちっちゃい頃から看護師になる!ってずっと言ってて、そのまま希望通り看護師になって、兵庫県に4年間行ってたんですけど今年帰ってきて県内で勤務してます。

 

で、次女は大学卒業する前に

 

「母さん、ごめんだけど自分は就活しない」

「周りと同じようなリクルートスーツ着て、同じ髪型、同じメイクなんて・・無理っ!!」

 

って言ってきて・・(笑)

 

当然、「じゃあどうするの??」って事になるんですけど、色々あって、今はパーティードレス専門店 Chandelier boutique(シャンデリア ブティック)のショップオーナーをしてます。

 

彼女の話をすると長くなっちゃうんですけど、私の友達からお店を譲渡してもらうという話になった時に、お店を持つための資金が彼女の友達からの支援で集まったり、私が課した売上目標を毎月毎月、軽々と更新していく感じとかね・・。

 

「何なんだこの子は!?」って感じで、色々と私の想像を超えてくるんですよね〜。

 

おー!娘さんお二人とも凄いですね。夢さんの方はビジネスセンスが抜群なんですかね?

喜久川 ね〜。

広告はFacebookに出してるぐらいで、後はホームページとSNSぐらいだけど・・。

 

彼女は英語も話せるので、基地に住んでる方とか外国人のお客様も結構いたりして。

いつも、楽しそうに頑張ってますよ♪

 

「メイク」との出会い

なるほど〜。では、ちょっと話を戻しますが、専業主婦の期間は長かったんですか?

喜久川 そうですね〜。

21歳からずっと専業主婦で。

 

でも、元々身体を動かすのが好きだったし、何か、ずっとこのままじゃ嫌だな〜っていう感じもあって。

何かしたかったから、当時旦那さんに「パートしても良い?」って相談もしたんですけど、「家の事、完璧に出来るなら良いよ」みたいなタイプだったから・・。

 

で、「無理かも・・」って(笑)

そんな感じで専業主婦をずっとやってて・・。

 

でも、ある時、ワイドショーで「かずきれいこ」さんって方が出てて、私のメイクの師匠なんですけど・・。

 

かずきれいこ先生が、TVで60代ぐらいの女性のメイクをすごく短時間で仕上げてて、「メイクってこんな短時間で出来るんだ!!」ってビックリして。

 

その頃、私はオシャレに全然興味がなかったから、ほんとに眉毛も毛虫が付いてるぐらい、ぼふ、ぼふって付いてる感じで(笑)

結婚式とかに呼ばれるようなだけ、友達のとこにいって、口紅だけ買うから化粧してってお願いする程度で。

 

で、かずき先生がメイクをした女性に「はい、できたわよ〜!」って鏡を見せた時に・・。

 

その方が鏡を見た時に「えっ!!?」って、本当に可愛い笑顔をしたの。

本当に子供が無邪気に笑う感じの素敵な笑顔。

 

それを見た時に「この人こんな綺麗に笑うんだ〜!」って感動したんですよ。

 

そっか〜。メイクの技術っていうよりも、メイクに喜んで無邪気に笑う女性の姿に胸を打たれた感じですね。

喜久川 うん、うんうん。

「メイクってスゴイ!!」って思って。

 

「この先生にメイクしてもらいたい!」って思ったけど、「でも東京だしな〜・・。」

「あっ、無理!!」って、すぐになったんですよね。

 

ほら、諦めぐせと我慢ぐせが染み付いちゃってるから、速攻無理っていうのが出て。

 

それでしばらく忘れてたんですけど

 

2、3年経った時に、元旦那さんが「東京に転勤になるかもよ」って・・。

そういう話が出てきたんですよね。

 

でも、彼が「お前たちなんかは、沖縄生まれ、沖縄育ちだから。東京じゃ無理だから、俺1人で行く」って話をしたわけ。

 

その瞬間にあのシーンが浮かんできたんですよ!

ずっと忘れてたはずなのに、ワイドショーのシーンが、ぽんって浮かんできて。

 

「あっ、東京行ったらあの先生にメイクしてもらえるかも!!」って思ったんですよね。

 

で、その事は頭にあったんだけど・・

彼には「大丈夫!家族は一つだから!東京でも何とかやっていける!!」って話し方をして(笑)

 

なるほど〜。ずっと頭の中に残ってたんですね。

喜久川 ですね。

ただ、下の子が毎月毎月入院するぐらい喘息がヒドくて、落ち着くまで少し待って、1年遅れで東京に引越したんですよ。

 

で、東京に着いたらすぐに、かずき先生のサロンを調べて・・(笑)

 

東京生活、憧れのサロンへ。そして波乱の始まり・・

(笑)そうなりますよね♪

喜久川 住んでたのが千葉で、サロンが新宿だったんですよ。

 

で、電車とかも全然乗ったこともなかったから、スゴイ冒険で・・笑

1時間とかそれぐらいかかったかな。

 

必死の思いでサロンまで行ったら、月謝というかレッスン料がすごく高くて。

月6万円ぐらいしたかな。

 

「あっ、これは専業主婦の私には払えない・・」って事で、とりあえずサロンの雰囲気だけを楽しんで帰ろうとしたんですけど、スタッフの方が「カルチャーセンターでのレッスンがあるから、そこでも受けられますよ」って教えてくれて。

 

それって、かずきれいこ先生が直接指導してくれるって事ではなくて?

喜久川 そうですね。

 

かずき先生は雲の上の存在だから、サロンでメイクしてもらうのも長期の予約待ちだし、そのカルチャーセンターのレッスンは教え子の生徒さんが対応するんですけど、そこでさえキャンセル待ちが1年ぐらいかかりますって感じで・・(汗)

当時、人気絶頂だったんですよね。

 

でも、「やっぱりかずきメイクが習いたい!!」って事で、待つ事にしたんです。

で、カルチャースクールの方でも毎月2万円ぐらいかかるし、「パートしてお金貯めよう!」「サロンでかずき先生のメイクも受けたいし」って思ったんですよね。

 

どうせだったら美に関わる仕事が良いな〜と思って仕事を探してたら、たまたま美容形成外科の院長助手みたいな求人が目に止まって、そこに面接に行ったんです。

 

で、想いを話してたら・・経験も無いし、看護師も医療事務の資格もない私を採用してくれたの。

そこの時給が1,200円だったわけ♪笑

 

おー!沖縄の時給や給与の話からすると、東京ドリーム!!って感じですね♪笑

喜久川 そこで働きながら、カルチャーセンターに通ってって感じでやってたら、そこのカルチャーセンターの先生がすごく素敵だったわけ。

 

多分、私より年下だったんだけど、すごい女性らしくてキュートでセンスが良くて、「あ〜、何か素敵だなぁ・・」って♪

で、その先生に憧れるようになったの。

 

で、自分はジーパンにTシャツだったし、髪も年に1回ぐらい美容室行ったら良いかな〜って感じで、伸ばし放題な感じだったから、「私もああいう風になりたい!」って先生の真似をするようになったわけ。

 

月に2回レッスンがあったから、行く度に先生が着てる服とかアクセサリーをチェックして、「あ〜、こういう風にすれば良いんだ」って参考にして、お買い物にいって似た感じのものを買って・・。

 

そんな感じの事を続けて、自分で着こなせるようになって・・。

 

で、メイクもならうでしょ??

そしたら、どんどん、どんどん自分が変わっていって・・。

 

その頃には、かずきれいこ先生に直接メイクをしてもらいたいって想いは・・?

喜久川 あ〜、無くなってた・・。

 

そうだね、かずき先生にはしてもらった事はないんだけど、その頃には「あっ、私このカルチャーセンターの先生にみたいになって、こういう仕事をしたい!」って思うようになったの。

 

で、先生に急に「先生!!私、プロスクール受けたいです!!」って言ったら

「えっ?でも、今からじゃちょっと間に合わないかも。」ってビックリされて。

 

ここまでのカリキュラムをかずきメイクで学んだ人だけがプロスクールの受験資格があるってルールがあって。

次のスクールの開講が4月〜、私が「受けたい!」って言ったのが2月だったんですよ(笑)

 

「由美さんは、まだこなせて無いカリキュラムが多いから、まだ受験資格は無いかも・・」って話だったんだけど

 

「いや、でも受けたいです!!」って言ったら

 

先生が「・・・分かった。集中講座しよう!」って言ってくれて

 

時間をぎゅーっと縮めて、マスター講座とか上のクラスの授業までやってくれて・・。

 

どうにか受験をする資格を取りました!

願書書いて、想いを書いて、小論文も書いて提出しました!

 

そしたら2週間後に、旦那さんが「3月から沖縄戻るから」って・・。

 

「・・・。」

「ちょっと待ってよ・・」って。

 

うわッと・・!それって、何歳ぐらいの時なんですっけ?

喜久川 34歳ぐらいの時かな。

願書出した直後ぐらいに「沖縄戻るから、引っ越しの準備しとけ」って言われて。

 

でも「いや、無理っ!!」ってなって。

ちゃんと話をしたんですよ。

 

「ごめんだけど、私は講師の資格を取って、沖縄にはもちろん戻るけど、沖縄でこのメイクを拡めていきたいから。」

「沖縄の人を笑顔にしていきたいから、私は今沖縄には帰れない」って。

 

そしたら、そこから大げんか(笑)

 

ありゃ(笑)

喜久川 「バカじゃないか?キ◯ガイじゃないか??」

「30超えたババアが何言ってんだ!!」って(汗)

 

もうケンカが始まって、家庭内別居みたいな。

口も聞いてくれないし。

 

旦那さん的には、由美さんがスクールに通って、先生に憧れて、メイクとかファッションとかが変わっていく様子に関して、何か言ったりとかは無かったんですか?

喜久川 一切、無かったですね。

 

基本、亭主関白系の人だったので。

褒めることもなく、励ますこともなく。

 

否定的というか、私には家庭に居て欲しいっていう考えが強い感じだったかな。

でも私は出たい人だったから。

 

で、家庭内別居みたいな感じが続いて、家では私は部屋に引きこもってたんだけど、偶然その時期に、かずき先生が情熱大陸に出たわけ。

 

私は見れなかったんだけど、彼がそれを見てて・・。

何か少し納得したんですかね。

 

彼から話があったんですよ。

 

「そういう道に進みたいたいんだったら、行けば良いよ。もう分かった。」

 

「でも、俺はお前の親じゃない。」

 

「自分でやりたいって決めたんだったら、生活も自分でしなさい。学費ももちろん自分で払いなさい」

 

「子どもの学費ぐらいは送る」

 

「会社に話をして、しばらくこの社宅にいれるようにするよ」
 

って。

 

あと・・・

「お互い離れて暮らすから、もしどっちかに好きな人が出来た場合、面倒くさいから、すぐに離婚届けに判を押せ!」って。

 

私はその条件をのんで・・・彼は3月に沖縄に帰って行きましたね。

 

おー!何か三行半的でもあるけど、ちゃんと考えてはくれてますね。

喜久川 そうだね〜。

 

でもね!

私、この時点で、まだ願書しか出してないわけ(汗)

合格してるわけでもなく・・。

 

そっか!笑 落ちたら地獄じゃないですか!!リストラ隠して公園に出勤するサラリーマンみたいに、旦那さんには受かった体で東京生活を続ける的な・・笑

喜久川 ほんとそうだよね〜(笑)

 

願書と小論文を出すのが一次試験。

 

これが通ったら、筆記試験と筆記。

 

それが通ったら、かずき先生と精神科のドクターの面接と適正験差。

 

っていう流れだったの。

 

精神科のドクター!汗

喜久川 かずきメイクは、リハビリメイクっていうか、患者さんを相手にするメイクの領域に入ってたから、ちゃんと自分を持っている人じゃないと患者さんを悪化させてしまう可能性があるっていう事で。

 

かずきメイクっていうのは、もちろんリハビリメイクだけじゃなくて一般の方にもするんですよね?

喜久川 そうですね。

一般の方もやるんだけど、かずき先生が目指しているのは医療の中に入っていってリハビリメイクをするっていう事を目指してたから。

 

プロスクールはリハビリメイクも含まれつつの・・2年間の構築。

 

一般メイクやって講師資格をとったら、リハビリの方に行くっていうカリキュラムがあって。

 

最終はリハビリの方で患者さんを扱う事になるし、ちゃんとしてる人じゃないと、かずき先生も自分が築き上げてきたものを教え子が崩すリスクがあるし。

そんな感じだから、試験も面接もすごく慎重で。

 

なるほど〜。そういう事なんですね。

喜久川 そう、それで・・・

願書出しただけで、旦那は沖縄に戻ったっていう状況だったんだけど、不安が何も無かったのが自分でも不思議で・・。

 

落ちたらどうしよう??って考えも浮かばなかったし、学費も200万円近かったけど、分割があるなら何とかなるか〜って感じで。

何か根拠のない自信があったんですよね。

 

で、周りに「学校通えるんだよ〜」「旦那が許してくれて、こっちに残れる事になった〜」って職場のみんなに言ったりしたら、全員が反対したんですよ。

 

「えっ〜〜!!」みたいな(笑)

 

「どう考えてもおかしいでしょ。専業主婦の方が楽だし、今更、30超えてメイクの学校なんて有り得んでしょ。今すぐ沖縄帰った方が良いよ」って。

 

それで、私おかしいのかな??と思って

いつも私を応援してくれて、すごく信頼してる叔母に電話したの。

 

私は応援してくれると思ってたから、全部想いを話したら

 

「由美ちゃん、ちょっと待ってよ。貴女は今・・・女に戻るのは10年早いよ。」

 

「今は母であり、妻である時期。それを、しかも貴女はお父さんが居なくて寂しい思いをして育ったよね??その気持ちを分かるはずなのに、何で子供に同じ事をやるの??」

 

そんな感じで

「今はやるな!」って・・。

 

そっか〜。子供はこの時いくつぐらいでした?

喜久川 えっと・・小学校5年生と3年生でしたね。

 

「自分が寂しかったのに貴女同じ事してるよ。今すぐ沖縄に帰りなさい」っていう風に言われて・・。

すっごい落ち込んで・・。

 

あ〜、そうだ〜って思ったし。

 

でもそれでも、何か諦めきれなくて、最後の最後に電話したのが・・

今までずっと自分の本音を話せなかった「母親」だったの。

 

厳しい人だったから、怒られるのも百も承知で。

 

そしたら母が「本気でそれをやれると思ってるの??」聞くから

私が「30何年生きてきて、これだけは諦めないって思ったのはこれだから・・これだけは諦められない」って言ったら


「だったら、やったら良いさ」って。

 

私は「え〜っ!!」ってなったんだけど・・

 

「お母さんも高校の時に留学しようと思ってパスポートも準備して、親に明日からアメリカだからね〜って言ったら、病弱だった母親(私のおばあちゃん)が、アンタは私を捨てていくんだね〜って布団の中から言ったの。」

 

「その言葉を聞いた瞬間に私は行けなくなって、パスポートも破り捨てて沖縄に残ることにした。アンタ達が産まれたしその事を後悔はしてないけど、もしあの時留学行ってたら私の人生どんなだったかな〜?って今でも振り返る事があるし、行けなかった・・って思いはずっと残ってる。」

 

「だからもし、貴女が本気でやりたいと思ってるならやりなさい。お母さんみたいに後悔はさせたくないから、やった方が良いよ。その代り、真剣に貫き通しなさい」

 

って事を言ってくれたんだよね。

 

それで私は心を決めて、2次試験も、3次試験も無事突破して合格できたんだよね。

 

メイクのプロの道へ

お〜!それが、かずき先生と初めて会ったタイミングですよね?

喜久川 そう、そうそうそう。

 

この想いも全部言って・・。こんなで、旦那帰して・・みたいな。

そしたら、「あら!そしたら、私責任重大だわ〜」みたいに言ってたけど(笑)

 

それで念願のプロスクールに通い始めて、美容外科の仕事はフルで働きながら、土日は学校行って山積みの課題に夕方ぐらいまで取り組んで・・という感じの生活がスタートしたんですよね。

 

でも、すっごい厳しい学校だったから、泣くぐらい怒られるんだよね。

特に技術面とかで。

そして、課題が多い。

 

現実と理想のギャップと言うか、私は出来ると思ってたのにコテンパンにやられるっていうショックもあったし。

 

で、家では毎晩、姑から電話。

「あんたはね、間違ってるよ。今すぐ沖縄に帰ってきて家族皆で暮らしなさい。」って。

 

う〜ん・・・。

喜久川 そういう感じが続いて・・そしたらどんどん、どんどん心が弱っていったんだよね。

そこから、自分を責めるようになっていっちゃって。

 

子どもの寝顔を見ながら

「あ〜、私は父親と暮らす大事な時期に自分のワガママで子ども達に寂しい思いをさせてるんだな〜・・。沖縄に帰ろうかな・・」って思って。

 

で、子供たちに聞いたんだよね。

「ごめんね。父さん居ないと寂しいよね??沖縄帰ろっか??」って。

 

そしたら・・。

 

「えっ!?お母さん、メイクの先生になるのが夢なんだよね?自分の夢諦めて良いの??」

 

「自分なんかも、洗濯たたんだり、お茶碗洗ったりお手伝いしてるさ〜。母さんのメイクの先生になる夢、応援してるんだよ〜!」って言われたの。

 

私は娘達に言われたその言葉に、ハッっとして。

 

あ〜、私は自分の心の弱さを子供のせいにして諦めようとしてた。

 

多分そのまま沖縄に帰ってたら、「子供達、お父さんが居ないと寂しいから帰ってきたよ」って、自分の心が折れてるのに、子供のせいにして逃げてたと思うんだよね。

 

こんな姿を子供達に見せちゃいけないな・・って気づいて。

 

「もっとお手伝いするよ〜。ご飯も作るよ〜。だから、お母さん頑張って!」って言い出したわけ(笑)

 

私は子供達を犠牲にしてると思ってたけど、逆に子供たちは理解して応援してくれてて。

 

被害妄想的になってた自分を反省して、もう一回心を整えて、スクールに通い続けて、無事に卒業までできたんですよね。

その子供達の一言がなかったら、沖縄に帰っちゃってたと思う。

 

娘さんたちからそんな風に言われたら泣いちゃいますよね。。プロスクール卒業後は東京で活動せずにすぐに沖縄に帰ったんですか?

喜久川 えっとね〜。

 

プロスクールの2年の1年間は東京から通って、その後長女が中学に上がるタイミングもあったから沖縄に帰ったんだよね。

だから残りの1年は沖縄から通った。

 

2年目は月に一回、現場に入ってリハビリメイクって感じだったから。

だから卒業後、東京に残ってメイク講師の活動っていう感じでは無かったですね。

 

なるほど。沖縄に帰ってきて、また仕事をしながら残りの1年通ったんですね。

喜久川 そうそう。沖縄に帰ってからは、また美容整形外科に勤務しながら(笑)

 

「なんで、美容外科に来るのか?」っていうのを知りたかった・・。

どういう人が、どういう想いで、どういうものを抱えている人がきて、自分の身体を直すのかな〜??って、そこに興味が出てきて。

 

そっか〜。かずきメイクもリハビリとか外見だけじゃない心の部分と向き合ってたんですもんね。

喜久川 そうですね。

 

意識が変わった。

美容外科でも段々、内面に関心が向いていって。

 

どうしても自分を好きになれない人が多い・・。

 

「顔を変えれば、人生うまくいく」

「胸を大きくすればモテる」

 

とか。

 

そういうのに頼る人って、どういう人なんだろうな〜?

どこに問題を抱えてるのかな〜?って。

 

そこは7年ぐらい勤めて。

美容整形外科は、東京と合わせるとトータル10年ぐらいかな。

 

しばらくはメイク一本でっていうのは全然無理だったから、美容整形外科で働きながら週末にメイクの仕事っていう感じでしたね。

 

かずきメイクのプロスクールを卒業した人は、いきなりフリーで活動するってわけではなく??

喜久川 そうですね。

 

「かずきメイクの専属講師」という形だったから、全国にあるサロンで働く人、カルチャーセンターで働く人、あとは東京ハンズの中とかのショップで働く講師だったり。

今は少し規模が縮小してるけど、当時は全国にかずきのサロンがあったの。

 

カルチャーセンターは全国にいっぱいあるから、かずきメイクの講師として派遣されていく感じで。

私も沖縄では、タイムス、新報、ウエル、南風原とか色んなカルチャーセンターで教えてましたね。

 

で、それをやってたんだけど・・・

 

かずき先生のコピーと言うか、どこに行ってもかずき先生の想いを100%伝えられるというのが、かずきメイクの講師の役目だったんですよね。

 

かずき先生の言ってる事以外は言っちゃいけない、自分の想いを入れられないっていうのが苦しくなってきて。

 

で、かずきメイクの講師として6年ぐらい活動したんだけど、そろそろ卒業させて頂こうかな〜と思って、かずきメイクの専属講師を辞めたんですよ。

 

フリーでの活動開始。そして、また波乱・・・

そうなんですね〜。そこからは「かずき」の看板を外した上で、フリーで改めてメイクの仕事を拡げていく感じになったんですか?

喜久川 そうですね。

 

しばらくは美容外科とメイクという感じでやってて、美容外科の方を辞めてからは結婚相談所で働いたんですよ。

 

「あっ、結婚相談所の会員さんを綺麗にすると成婚率上がるかも♪」って思ったりもして。

事務を手伝いながら、会員さんにアドバイスしたりとか・・でしたね。

 

で、しばらくして、その結婚相談所も抜けて・・その後にね〜。

詐欺にあったというか、巻き込まれてしまったんですよ。

 

もう、何度ビルから飛び降りようと思ったか・・。

 

え〜!ちょっと急に恐ろしい話が出てきた。出資金詐欺みたいな感じですか?

喜久川 まあ、あんまり詳しくはアレなんですけど、相手は自分にお金が無いのを知ってたから、私の人脈を利用した感じでしたね。

仕事の繋がりで、信頼してた人だったんですけど。

 

結果的に私が出資金集めの窓口みたいになってしまって・・。

でも、集まったお金は何故かすぐにお金が消えていくし。

 

で、結果それが全て詐欺で、詐欺師は全く足がつかないようにしてお金と共に消えて。

 

その人は口がうまくて私を悪者にしてたから、よく分からないまま窓口になってた私のところに批判とか恨みつらみが全部きて。

本当に・・死にたいと思うまでになったんだけど、そういうタイミングで知り合いから連絡がきたり、子どもの顔が浮かんだりして、簡単に死ぬなんてできず・・。

 

うわ〜。恐ろしいですね(汗)

喜久川 億単位のお金が動いたみたいで、当然、警察の捜査も入ったんだけど、完全にプロ中のプロの仕業って事で、私に疑いの目が向くような事はなかったんですけど。

被害者の会や弁護団を作って、やりあったとしても、戻ってくる見込みは薄い・・って話でしたね。

 

私も最終的に100万円お金を引っ張られたし、精神的にも金銭的にもボロボロだったんですけど、その時に救ってくれたのが、今はもう無くなっちゃったんだけど「coupo(クーポ)」っていうフリーペーパーをやってた会社の社長さんだったんですよ。

30代の若い社長さんなんですけど。

 

詐欺トラブルの時に、私が裏で色々言われてるのに違和感を感じて、直接私に言ってくれて「えっ、なんで?私、そんな事になってるの??」って事で発覚したんですよ。

で、彼の協力で、その詐欺トラブルから抜け出すことができたんです。

 

「この100万円の借金どうしよ〜。。」ってなってる時も

 

「じゃあ、うちに来て下さい。資金力がある会社じゃないけど、これぐらいなら給与出せるから。+αでメイクの仕事をして返したら良いですよ」って言ってくれて、それで1年ぐらいその会社のお世話になったんですよ。

 

おー!男気有りますね♪

喜久川 ね〜。

そのタイミングで、WEBや集客のコンサルをやっている坂本さんを紹介して頂いて、メイクの仕事のホームページを作って・・。

 

坂本さんから「メイク一本でやっていった方が良いですよ」って言われて、そこで初めて「メイク一本で」っていう意識が芽生えたんだよね。

それで、coupoを辞めて、そこから「Discover Make(ディスカバーメイク)」が立ち上がった感じですね。

 

 

意識の変革。ビジネスの加速度が増していく

ついに本格指導ですね!やっぱりメイク一本でやっていく覚悟が固まって色々変わっていきました??

喜久川 そうですね!

変わりました!変わりました!

 

それまではメインの仕事があって、ついでのメイクというか、趣味として人を笑顔にするのが楽しいぐらいの感じで、プロ意識がそこまで無かったかな〜。

 

でも、その坂本さんから言われた言葉が衝撃的で、自分の中ですごく大きくて・・。

 

最初の面談をした時に言われたのが

 

「由美さんの想いは分かりました。こんなに素晴らしい想いを持っている人が、自分をしっかり打ち出していないっていうのは不親切ですよ。」

 

「例えで言うと・・人命救助のAEDって機械がありますよね?で、ここに倒れている人がいます。この人はこれを使えば命が助かるのに、もしAEDって表示されてないAEDがかかってたとしたら、そばにいる人はこれを使えば良いって分からないですよね?そしたら、この人救えないんですよ。」

 

「今の由美さんは、AEDって表示されてない、ただの箱があるだけです。喜久川 由美がここにいる、こういう想いで、こういう仕事をしているって皆が分かるようにちゃんと表示して世に出ましょう」

 

「そのためにはホームページが必要ですよ、屋号が必要ですよ。」

 

って言われて。

 

素晴らしいものを持っていて、ニーズがある人もいるのに、それを活かせてない今の由美さんは皆さんにとって不親切なんですよって。

親切じゃなくて、不親切なんですよって。

 

その言葉がすごくショッキングで。

そこから意識が変わって、ホームページを作って、メニューを細かく考えたり、徐々に経営者目線になっていったかなぁ〜って。

 

なるほど〜。面白い例え方だし、不親切っていう言い方も良いですね♪

喜久川 そうですよね〜。

そこからは本当に改めて仕切り直しというか、ゼロから・・というような感覚でしたね。

 

で、坂本さんが言ってくれていた通り

 

今まで私がやってきた事が・・・

 

「私が、やりまーす!!」ってニョキって出た瞬間に「待ってました〜♪」って感じでスッと皆が集まってくれた感じで・・。

だから必死で集客したとか、売り込んだという感じではなくて、自然と波に乗っていけた感じなんですよ。

 

坂本さんが仰っていた通り、ニーズがあったって事ですよね♪そこからまた更に飛躍するキッカケも何かありましたか?

喜久川 そうですね♪

 

えっとですね・・。

整体の店舗チェーンを展開している同級生から

 

「由美〜、いつまでも現場には立てないよ〜。そろそろ自分達の年代って、後継者を育てる、人材を育てていく年齢に来てるよ〜」って言われて

 

私も「あ〜、そうだよなぁ」って思って。

 

「自分のコピーってわけじゃないけど、同じような想いや技術を持っている人がもう1人いたら、もっと多くの人を幸せにできるでしょ〜。それが2人、3人っ揃っていけば、もっとでしょ?だから、人を育てていった方が良いよ〜」って。

 

「あ〜、そういう考え方かぁ」って。

 

だから全然、世間知らずな私なんだけど、そうやって周りが今必要な事を伝えてくれる。

それを、「そうだ!」って受けとめて、行動に移してるだけっていうか。

 

私はあらゆる計算が苦手(笑)

 

数字の計算も苦手だし、ビジネスの計算も苦手だし、人間関係の計算もできないから〜。

その時、その時、大切に感じたことを、只々 行動に移してるだけなんですよね。

 

それってやっぱり由美さんの想いや技術が人を幸せに出来るって信じて、自然と応援してくれる人が周りに多いってことですよね♪あとは、由美さんピュアで素直に真っ直ぐ受けとめる感じだから、それも関係してそうな。

喜久川 そうですかね〜。

 

そういうキッカケもあって、Discover Makeとしてプロスクールを開講して生徒さんの指導も始めるようになったんですよね。

 

そこではプロとして活動できるだけのメイクの技術を教えるのはもちろんだけど、お客様の心に寄り添う内面の部分も重視して指導してます。

 

 

あと、最近ではプロっていうよりも、もっと気軽に日常の中でメイクを楽しんだり、メイクをキッカケに自分と向き合ったり、新しい自分を発見してもらうようなイメージで、セルフメイクのレッスンとか、グループレッスンにも力を入れてますね♪

 

そっか〜。由美さんはフリーとしての活動っていう意味では、まだそこまで長くないと思うんですけど、後継者育成よりも、まだまだ現場でプレイヤーでいたい!っていう感覚は無いですか?

喜久川 あった、あった!笑

元々、職人気質だしね〜。

 

でも、育成に力を入れる=現場が無くなるって訳じゃないですもんね。一番、楽しいのってどんな現場ですか?

喜久川 そうですね。

知り合いのショーに入ったり、撮影の時に現場に入ったりもあるんですけど、現場はやっぱり楽しいわけ(笑)

特に撮影の現場は、臨機応変さが求められるし、楽しいですよね♪

 

でも最近、これは私の仕事にせずに譲っていけば良いかな〜って思ったのが、東京とか内地から芸能人がきて現場に張り付いてメイクをしてた時に、違和感というか「あっ、これは、私じゃなくても良い」っていう感覚が出てきて。

 

って言う事は、私じゃないと出来ない仕事をしたいんだな・・って逆に考えたんですよね。

 

で、こういう現場は、芸能人、モデルの◯◯さんをメイクしましたっていう事をステータス・実績にしていきたいメイクさんにやってもらった方が良いと思って。

 

本当にメイクの仕方が分からない、オシャレの仕方が分からない、自分の事が好きになれない、いつも人を羨んでる・・。

 

そういった方に、その人の持っている素晴らしさを伝える事で、心の扉がパカーンって開いた時に最高の笑顔で鏡を覗いてる姿が、涙が出るぐらい嬉しいわけ。

「えっ〜!これ、私なんですか〜〜?」って。

 

 

最初にTVで見て、強く心をうたれた瞬間を生で何度も見れるんですもんね♪しかも自分のメイクを通じて。Discover Makeは自分自身を発見するっていう意味でもありますよね。

喜久川 そうそう、そう〜。

 

だから、その時、ほんとに気付かされたっていうか。

タレントさんのロケ等の現場からは1年前ぐらいを区切りに遠ざかってますね。

 

あれですよね。華やかに露出するって意味でのメイクは・・

喜久川 そうそう、その領域はメイクアップアーティストに任せて、自分はメイクを通じてより内面と向き合っていく分野に特化したいっていう・・私の想いというだけで、どっちがどうとかじゃない。

 

自分の役割というか、使命は・・

 

もっと自分に自信を持って生きていって欲しい。

もっと自分を好きになって欲しい。

 

っていうのと

 

あっ、こんな私も・・良いんだ!

ここをこうすると、こんなに可愛くなる!

 

っていうのを発見できて

 

自分自身を受け容れる事ができると、絶対、未来って変わると思うし、表情だけじゃなくて、歩く道も変わってくると思うわけ。

だから、そういうターニングポイントにDicover Makeがお役に立てたらなぁ〜って。

 

で、私に出会うことで何かしら種を植えれるというか。

種をまくことができたら、次は水を注いであげる。

 

あとは、発芽するのは自分の力なんだけど・・。

 

私はその役割ができたらなぁって思うし、そこだなぁって。

だから私はメイクアップアーティストって言われるのにずっと違和感を感じてて、自分でビューティーケアリストって名乗り方を作ったんですよね。

 

なるほど〜。素敵ですね♪

喜久川 ありがとうございます。

 

でね、ちょうど、これで良いって自分で思えた時ぐらいにミス・ユニバースのお仕事をさせて頂いて、彼女たちが本当に変わっていく姿を見て、私自身がすごく感動したんですよね。

 

最初は本当に、OLさんとか、大学院生とか

「綺麗だけど・・・普通にいるよね」っていう感じの女の子達が・・

 

予選を勝ち抜いていって、ファイナリストになった時に、ビューティキャンプっていうのに突っ込まれるの。

 

そこで、マナーの先生、メンタルの先生、ウォーキングの先生から指導を受けて。

で、彼女たちは自分で全部やらないといけないから、それをドンドン身につけていって、ポージングとかも全部。

 

そしてやって、本選迎えた時に、もう私すごい泣くぐらい感動したんですよ。

本当にこんなに短期間でここまで頑張ったんだぁって・・。

 

すごい見違えるぐらい、誰が代表になってもおかしくないぐらい。

本当に凛として、しなやかで美しくて、それぞれの個性もあって。

で、自分を知ってる・・。

 

素晴らしい!!! って思って。

 

TVとかで見るとしても優勝者発表の瞬間だけで、短期間で大きく変わっていく様子を目の当たりに出来るのって現場だけですもんね。

喜久川 そうだよね。

 

何となく代表になれれば良いなぁって思ってたものが、「代表になる!」っていう風に彼女たちの意識が変わってくると、表情も話し方も変わってくるし・・。

 

「あっ、人は意識を高く持って、目標設定をして、そこに適切な指導・アドバイスができる人、寄り添う人がいればこんなに大きく変われるんだ!!」っていう事を強く感じて、そこから自分のレッスンでもメイクだけじゃなくて、より総合的な指導も取り入れるようになったんですよね。

 

もちろん、あくまで触りの部分や意識を伝えるっていう感じですけど、それぞれの分野でプロがいるからより突き詰めて学びたいっていう事になれば、周りの往路の方に繋いであげる事もできるし。

 

素の自分とか、本当はこうなりたいって自分を発見してフタをあける、そういう部分に一緒に関わっていきたいんですよね。

 

育児、教育を振り返る

素敵です!これからドンドン素敵な瞬間を目にする機会が増えていきそうですね♪話が変わりますが、人材育成にも力を入れている由美さんが育児、子育てで気をつけてきたことってありますか?

喜久川 子育て、教育で言うとね〜・・。

 

「自分で決める」って事だけは、意識してさせてたと思う。

 

私の子供を知ってる周りの人はよく「どうやって育てたら、ああいう大人になるの?」って言ってくれるんだけど、特別私は教育をした感じはないんだよね・・。

 

思い起こせば、子供たちが小学校の頃に自分がメイクのプロスクールに通ってて、「目標のためにはこういう努力が必要」っていう事を、私の姿から学び取ってくれた部分はあると思う。

 

あとは、2人とも学生時代はマーチングバンド漬けで、そこでほぼ時間を守るとか、礼儀とか、先輩を先回りしてやるべき事はやるとかっていう社会的な事は鍛えられてるから、その辺は全くタッチしてなくて。

 

自分で選択させるって部分でも・・

 

色々な事で、娘から相談はしょっちゅう受けてたんですよね。

「母さんはこう思うよ」って自分の意見は言うんだけど、選択は自分でさせる。

 

大人だから分かるじゃないですか?

あっ、こっち選ぶと泣きを見るだろうな、失敗するだろうな・・・みたいな事が。

でも、それはあえて言わない。

 

結果、案の定、失敗して、チーンってなって戻ってきたとしても・・。

 

そこで、私が絶対言わないって決めてるのは「だから言ったでしょ!」とか「ほらね〜」みたいな言い方は絶対しないようにしようって思ってて。

 

そうじゃなくて「あっ、そうなんだ。じゃあ、違う方法考えよっか。次どうする〜?」って言い方をする。

 

そしたら落ち込んでる暇ないんですよ。

 

「じゃあ、次どうする?」って聞かれたら、チーン・・じゃなくて「どうしよう?」って考えて、目線が上に上がるんですよ。

そこでまた自分で考えて選択して、行動していく。

 

確かに、そういう関わり方だと、選択の権利も責任も自分にあるし、自分で考えて成長しやすそうですよね。信頼して任せてくれる親への信頼感も増すし♪

喜久川 そうですね♪

で、うちは反抗期も無いかな?と思ってたら、2人とも高校卒業ぐらいのタイミングでバッチリきましたね(笑)

 

まあ、娘たちも色々回り道とか失敗はしつつも自分なりに成長して、私は私で口出ししたいのはグッとこらえて、我慢して見守る感じを貫いて。

そんな感じで、最終的には自分で選んで道を切り開いていってくれましたね。

 

これ、相当、忍耐力が要りますよね(笑)

喜久川 ほんと、そう!

言ったほうが楽だもん!笑

 

メッセージ、提供できる価値。こんな人と繋がりたい!

由美さんは「誰に」「こういうメッセージ」を伝えたいっていう事でいくと、どういう内容になりますか?

喜久川 うーん・・。

 

昔の私がメイクの世界に入って変われたので。

それまでは自分の事が大嫌いで、人と比べてばっかりで、劣等感の塊だったので。

 

昔の喜久川 由美みたいな人かなぁ。

育ちのせいにする、親のせいにする、過去ばっかり振り返って生きづらさを感じてる人に・・。

 

もっと違う人生があるんだよって。

自分を受け容れて、魅力をそのまま出せるようになると、すごく変われるので。

 

分かりやすく言うと、自分を嫌いな人・・。

諦めている人が結構多いから

 

そういう人に

「もっと自分の可能性を信じて欲しい」

 

って事を伝えたいかなぁ。

 

人と関わることで由美さんが提供できる価値っていうと、どんなものがありますか?もう既に色々想いは聞いてますけど。

喜久川 小学校の講話で話したりもするんだけど、私、結構色んな人生を歩んできているので、「昔こういう人でも、こうなれるんだ!!」っていう希望になれるかもしれないと思っていて・・。

 

だって、貧乏だった、勉強出来なかった、自分に自信がなくて、ずっと諦め、我慢が染み付いた人生だったから。

それがこんなに変わったし。

 

人に頼まれたら断れないからやっちゃうっていう性格も、その中で要領とか臨機応変さとかが養われたし、今まで起こった色々な出来事も悪かった事は一つも無くて、その時その時は辛くても、今の自分になるためのプロセスだったって思えるんですよね。

 

だから、幼少期がどうであれ、学生の時がどうであれ、こうなれるんだよっていう・・

 

ある意味希望??笑

自分の過去の話をする事でね。

 

「えっ、由美さんそうだったの?」って言われる事が多いけど

「そうだよ〜。道の葉っぱ食べて育ったんだよ!勉強も出来なかったし、自分に自信もなかったんだよ」って。

 

私の経験を話すことで、人が希望を持ってくれたら本当に嬉しいですね。

 

なるほど。逆に、こんな人と繋がりたい、出会いたいっていうイメージはありますか?

喜久川 やっぱり波瀾万丈の人の話をいっぱい聞いてみたいし、私も世界を知りたいので、色んな世界各国の事を経験してる人から話を聞きたい。

 

本とかじゃなくて本当に体験したことを、聞いてみたい。

私が体験できなかった国とか、世界の事を・・。そういう知識を得たいっていうか。

 

欲張りじゃないですか!笑 自分の人生を全うする以上の、生きられなかった人生とか体験を知って自分に取り込みたいっていう感覚。諦めぐせとは真逆!

喜久川 確かに、そうですね!笑

 

あっ、あと、私が気づいてない可能性を見つけてくれる、見出してくれる人!笑

「由美さん、こんな事もできるんじゃない??」とかって、私の盲点に気づかせてくれるような。

 

なんだかそれも、良い意味で人に甘えられると言うか、オープンに心を開ける余裕が無いと生まれない感覚のような♪笑

喜久川 そうですかね。

周りに恵まれて、大切な事に気づかされてっていう事が多かったからかな。

 

今日はありがとうございました!楽しかったです♪

喜久川 はい。こちらこそ♪

ありがとうございました!

 

以上でインタビューは終了となりました。

お話をお伺いして、由美さんは人が好きで、好奇心も旺盛で、諦めぐせ、我慢ぐせというところからの変貌っぷりがスゴイなと感じました。

まだ、たまに我慢ぐせが顔を出しそうになる時はあるそうですが、今後も想いの強さで乗り越えていってくれそうですよね♪

今後の由美さんの活躍も楽しみです!

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Contact

喜久川 由美(キクカワ ユミ)/ビューティーケアリスト

沖縄出身。
専業主婦歴が長く30代からメイクの道を志す。
資格取得後は沖縄でDiscover Makeを立ち上げ、様々な現場に携わりつつ、プロの育成や日常のメイクを楽しむレッスンにも力を入れている。

Discover Make

住所:宜野湾市宇地泊546 光店舗 2階(map
URL:http://makeup.okinawa/

喜久川 由美さんと繋がるには?

LINE@からお問い合わせ下さい。
http://makeup.okinawa/contact-2/


編集後記

黒瀬 圭

インタビュワー:黒瀬 圭 Kei Kurose(株式会社ドリームテラー代表)

メイクと聞くと「美」とか「華やかさ」というイメージが最初に浮かぶ人が多いと思いますが、内面に向き合う、素の自分を知るキッカケになるという話は興味深いですよね♪

男性の場合は、例えばスーツを着てネクタイを締めると気持ちも引き締まるとか、ビジネスモードのスイッチが入るとかアイテムに頼る事になるのかもしれませんが、女性は「メイク」という活用しやすいツールが身近にあるという事を知っておくと違いますよね。


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